月別アーカイブ: 3月 2016

保管用木箱の材料

 

10月の個展に向けて、昨年末頃から一品物の蓋物を中心に製作していますが、定番的な小物類(10個単位での複数生産品)の場合のような紙箱ではなく、専用の木箱に収納・保管をし、お客様にお渡しします。一品物は必然的に値段も高くなりますし、実用を越えて飾り物として利用されることも多いので、傷が付かないようにしっかりした専用の箱が一対一で必要です。

入れる品物に対して箱をあまりきっちりに作ると取り出しにくくなるので、指が差し込めるように20mm前後の適度な余裕をもたせることと、品物よりは比較的柔らかく軽めの材料である必要があります。この手の箱にはキリ(桐)が用いられることが多いのですが、当工房では現在キリは使っていないことや、他の用途でふだん使用している材料のほうが都合がいい(無駄が出ない、在庫管理が楽)ので、今回も材料はスプルス(ベイトウヒ)です。北米産の針葉樹ですね。

写真はそのために木取→分決めした板ですが、厚さは7.5mmと5.5mmの二種類。ごらんのとおり無地の柾目の板で、保管用の箱には良すぎてもったいないと言われることがあります。たしかに建具用の特等クラスの45mm厚×4m長さの板をバンドソーで挽き割って作った板ですが、じつはそれ以外のグレードのスプルスは持っていません。大量に箱を作るのであればそれ用の材料を別に仕入れたほうがいいんですけどね。材料単価がまるで違いますから。

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鳥海山のみごとな姿

 

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快晴の空のもと、作日午前9時半頃の鳥海山のみごとな姿です。言うことなしです。

 

シテ句会 2016.3.16

 

奇数月の第三水曜日に開催している恒例のシテ句会ですが、この体制で句会をおこなうようになってからちょうど丸2年が経ちました。隔月とはいえ一度も中断することなく続いています。なによりと思います。『シテ』は現代詩や俳句や短歌等の短詩系文学の作品発表と批評を目的とする同人誌ですが(現在9号まで発刊)、同人の有志および外部の希望者による句会も開いています。場所は酒田駅にほど近い「アングラーズ・カフェ」というお店にて、午後6時半〜9時。

今回の参加者は相蘇清太郎・今井富世・大江進・大場昭子・南悠一の5名と、いつもより少ないです。伊藤志郎&齋藤豊司さんは急な都合により投句のみ。事前に無記名で2句投句し、句会当日は清記された句群(第一幕・第二幕)の中からおのおのが2句ずつ選びます。その句を取った弁、あるいは取らなかった弁などをみなで述べ評し合ったあとで、はじめて作者名が明かされます。こうしたやり方は他の句会でもおおむね同じで、先入観を排しできるだけ忌憚のない批評・意見を出してもらうための古来からの工夫です。

以下の記述は句会の主宰(代表)をつとめる私からみての講評です。ときに遠慮会釈のない辛口批評を含みますが、ご容赦ください。異論・反論はとうぜんあるかと思いますので、コメントをいただければ幸いです。では第一幕から。頭の数字は得点です。

0 暗黒の国土にちり敷き玉霰
1 早池峰の昏き道行うすにごり
2 独楽ひとつ猫のひとりと遊びけり
1 湯につかりみよちやんの春早く来い
2 手袋のやうな手首を拾ひけり
1 黒土の虫の驚く雷一つ
3 山河あり白鳥引きし広さかな

最高得点3点句は最後7句目の<山河あり〜>です。越冬で日本に渡ってきていた白鳥も、冬も終わりが近づくにつれ北方の繁殖地に帰っていきます。白くて大柄な鳥だけに、今まで河口や田んぼなどに群れていた白鳥の姿が見えなくなると、一抹の淋しさ寂寞を覚えますね。佳句ですが、しかしなにかの不在が逆にその空間の広さを感じさせるという表現はよくあることと、はじめに「山河あり」と強くいい最後に「広さかな」とさらにだめ押しをしているところは、どうでしょうか。どちらかに焦点をしぼったほうがいいように思います。作者は大場昭子さん。前回もそうですが、大場さん好調です。

次点2点句は2句あります。はじめの<独楽ひとつ〜>はまず中句の「ひとり」をどう解釈するか迷います。猫が複数いてそのうちの一匹ということか、独楽で遊んでいる猫を眺めているひとりの人間とかけているのか。はたまた上句の「ひとつ」はそうなると単純に一個の独楽とだけみていいのか……。むしろ、やや広い室内に一個の独楽があり一匹の猫がいて、独楽のほうが猫と戯れているととると俄然面白くなるようにも思います。いずれにしても句意がもうすこし鮮明になるように推敲が必要でしょう。作者は今井富世さん。

もうひとつの2点句は<手袋のやうな〜>ですが、これは私も取りました。実景としては、まるで手首とみまがう肌色か血の気の失せたような白っぽい手袋が落ちていたのでしょう。それを逆に「手袋のような手首」としたところが手柄で、とたんに怪しく禍々しい空気が漂ってきます。「やうな」+「けり」という表記も効果的ですね。作者の南悠一さんによると、犬の散歩で道ばたに肌色の手袋が落ちていてたいへん驚いたとのこと。

1点句は3句。<早池峰の〜>は、私も取ったのですが、すこし苦し紛れです。早池峰山は岩手県にある有名な高山ですが、歴史的にも地学的な意味でもとても興味をそそる山ですし、まず名前がいいです。その早池峰山から雪解けの水が流れ出してきているという景だけでじゅうぶん趣があるので、中句「昏き道行」とまで言うとかえって演出過多になってしまいますね。作者は齋藤豊司さん。

次の1点句<湯につかり〜>は童謡のフレーズを援用しており非常によくわかる句ですが、それだけという気も。みよちゃんではなく、作者のオリジナルな言葉がほしいです。作者は伊藤志郎さん。

三つ目の1点句<黒土の〜>は、季語である「虫出し」「虫出しの雷」の説明そのものになってしまっています。春の雷のことですが、啓蟄の頃によくなる短い単発的な雷ということで、早春のまだ草も萌えていない時期なので土も黒々としています。作者は相蘇清太郎さん。

点の入らなかった1句目の<暗黒の〜>は私の句です。金子兜太の有名な句の<暗黒や関東平野に火事一つ>に対するオマージュのつもりもあったのですが、玉霰との対比がちょっと大げさ・重すぎたかもしれませんね。

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第一幕は以上で終わったのですが、新規参加を期待されているNさんが、ちょうど仕事を終えて句会の会場に現れました。ということで、第二幕では急遽Nさんからも選句していただきました。

0 冷え冷えと鈍き光の春初日
3 百三才逝去は一度二月尽
3 さくらもちうぐいすもちととなりあい
2 雪兎いちども跳ねずに死ににけり
1 法法華経職無き朝の目覚めかな
2 淡雪にみちびかれアイス万引す
1 天井よりカメムシ落ちる雪の朝

最高点3点句は二句あります。はじめの<百三才〜>は、百歳をこえての死という大往生ならではの句。奇しくも一・二・三と数字がきれいに三つ並んでいますが、作者の大場昭子さんによればフィクションではなく実際にそうであったとのこと。また「逝去は一度」としたことで、誰でも一度は死ぬのだという事実をこえた哲学的な意味合いがかもしだされてきます。私も取りましたが、いい句です。

もう一つの3点句が<さくらもち〜>です。まあ、どうということのない見慣れた場面で、これだけではものたりないかな。私はすぐ岸本尚毅の<草餅に鶯餅の粉がつく>を思い出してしまいました。それくらいに飛躍すると面白くなると思います。草餅はきな粉がつくのを嫌がっているわけで「そばに来ないでよ、やだなあ」と言ってるという図です。AとBとが隣り合わせになるという句はよくありますが、よほどうまく組み合わせないと。難しいです。作者は伊藤志郎さん。

次点2点句はやはり2句です。<雪兎〜>は実際の動物の兎のことではなく、雪でこしらえた飾り物の兎のこと(冬の季語である兎をわざわざ雪兎と表することは普通ありません)。その作り物の雪兎が跳ねないのではあまりにも当たり前のことなので、この句は全体を寓意とみるべきでしょう。命をまっとうすることなく逝ってしまった幼きあらゆる生き物です。上五でいちど切れるので、上と中・下は別ととってもよく、解釈の幅は広がるでしょう。作者は私です。

もう一方の2点句<淡雪に〜>は、下句の「万引す」がしっくりしません。むろん俳句なので万引という行為自体の是非を問うつもりは毛頭ありませんが、あくまでもその言葉に詩的感興があるかどうかということです。俳句で窃盗・強盗・殴打・殺害などの言葉(と、それに類する言葉)はわりあい見かけますが、万引きはそれらにくらべるとどうもしょぼいからか、私は目にしたことはありません。作者は南悠一さん。

1点句もふたつです。<法法華経〜>はうぐいすのさえずりをあえて漢字で表すことで、まったく違った空気が漂い出ています。こうなると「職無き」も単に無職・退職というような俗世の習いをはなれて、もっと深遠な意味合いにもとれてしまいます。文字面も大事という見本のような句。作者は相蘇清太郎さん。<天井より〜>はたまさかの陽気にうかれてか落下してきたカメムシですが、そのまますぎる描写でただの報告に終わっています。

無得点の<冷え冷えと〜>は全体が無駄なリフレインで、しかも下五の「春初日」は春の日のことなのか、新年の初日のことなのかもはっきりしません。

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いつも句会の事務方・司会・進行役を務めていただいている南悠一さんが、3月12日の朝日新聞の記事のコピーをもってきて配布してくれました。東日本大震災から5年が経過し、それを機に東北在住の詩人・歌人・俳人が作品を寄せたもの。詩は秋亜綺羅、短歌は本田一弘、俳句はてるいみどり(照井翠)の各氏の新作ですが、圧倒的に俳句のできがいいです。
春の底磔のまま漂流す
大切のしら骨のもう海のもの
春の泥しづかにまなこ見開かる
塞き止めてわたくしは湖哀しみの
雛まつり遺影外され伏せらるる

 

丸形被蓋くり物6点 個々のご紹介

 

当ブログでたびたび言及していますが、今年10月に酒田市内の画廊で個展を開きます。それに展示する新作を昨年12月頃からすこしづつ作り貯めているのですが、今回は2月分に続いて旋盤加工による丸形の器です。基本形状はいずれも蓋が実にすっぽりとかぶさる形の被蓋ですが、やや変則的なものもあります。

材料は黒柿が5点、オニグルミが1点の計6点です。大きさとしては手の平にちょうど収まるくらいのものから、片手で持つにはすこし大きすぎるものまでいろいろです。直径(10〜13cm)がすこし変わるだけで、見た目のボリューム感はずいぶん異なります。

仕上げの塗装は黒柿は艶々の鏡面塗装、オニグルミは艶を半分程度抑えた半艶(5分消し)塗装です。黒柿はやはりできるだけ艶があるほうがその独特の黒い紋様が映えると思いますし、逆にオニグルミやタモやセンなどはすこし艶を消したほうがしっとりとして好ましい感じがします。内側はすべて艶消し(全消し)塗装です。

 販売価格については個展開催の直前にならないと確定しません。しかし製作原価から計算してのおおよその値段を算出することはできますので、仮予約という形での予約は受け付けています。ただし納品は原則として展示会終了後となりますし、お支払いも画廊との売買・契約というかたちです。ご興味のある方はメールにてお問い合わせください。

 

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No.509 黒柿丸形被蓋くり物 サイズ 直径118×高さ40×実の深さ26mm 黒柿の極上の孔雀杢。被蓋ですが実(み)の下部のほうだけ蓋の径と同じ大きさにした変形の被蓋です。蓋も上の縁にわずかな段差をつけて実のほうの形状とバランスをとるようにしています。

 

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No.510 黒柿丸形被蓋くり物 サイズ 直径129×高さ39×実の深さ25mm 上の509より一回り大きく、また被蓋もいくらか膨らんだスタンダードな形式です。杢は蓋の全面ではありませんがやはり孔雀杢となっています。

 

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No.518 鬼胡桃鶉杢丸形凹面被蓋くり物 サイズ 直径128×高さ44×実の深さ27mm オニグルミに鶉(うずら)の羽根の重なりを想わせるような変わった杢が生じています。写真ではよくわかりませんが、蓋は通常とは反対にすこし凹んだ形状。実のほうも下部をすこし大きくして蓋と外面をそろえた変形の被蓋です。

 

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No.519 黒柿丸形被蓋くり物 サイズ 直径107×高さ33×実の深さ21mm 519〜521および前に完成した513は、黒柿の一枚の板から連続的に木取したもので、紋様もつながっています。実のほうには黒い模様が出ていませんが、やはり蓋と共木です。材料がやや薄い28mmの板から旋盤で削り出しているために、手の平にちょうど載るくらいのコンパクトなサイズです。白黒がはっきりしたバランスのとれた杢ですが、上面にとどまっているのがちょっと残念。

 

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No.520 黒柿丸形被蓋くり物 サイズ 直径103×高さ29×実の深さ18mm 上の519の続きの材料です。だんだん蓋の黒い紋様がすくなくなってきましたが、このような景のはっきりしたもののほうを好まれる方もいます。サイズもだんだん小さくなっていますが、これはきれいな面が出るまですこしずつ削って成形しているため。 売切れ

 

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No.521 黒柿丸形被蓋くり物 サイズ 直径102×高さ27×実の深さ17mm もう蓋の黒い紋様が消えかかっています。白い部分が多いのですがそれにも濃淡があり、夜明けまたは日没の海辺の光景(黒いのが岩礁)のように見えなくもありません。 売切れ

 

コーヒーブレーク 74 「ざぶざぶと」

 

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雪兎いちども跳ねずに死ににけり

雪兎は元々は来訪されたお客へのもてなしで、お盆に半楕円球に盛った雪を、耳は椿などの葉で目は赤い木の実を用いて、兎に模したもののようである。これは「見立て」の一種であるが、子供の遊びというわけではない。しかし現代の家屋では暖房が効いていてすぐにだめになってしまうので、そうした余興は成立しないだろう。/昔は暖房といっても炬燵や火鉢や囲炉裏くらいの局所的な暖房であって、それらのすぐ近くにいればこそいくらか暖かいものの、すこし離れれば戸外とたいして変わらない寒さであった。厳冬期は室内のものも水気を含むあらゆるものが凍ってしまうというのが普通の暮らしである。朝目を覚ますと自分の呼気でふとんがうっすらと白くなっていたということも。

暗黒の国土にちり敷き玉霰

金子兜太に「暗黒や関東平野に火事一つ」という有名な句がある。私もこれは名句中の名句と考えている。彼が第二次世界大戦時に従軍していたこともあり、句中の火事を米軍爆撃機による空襲の火事と解釈する向きが多いようだが、なにもそれに限定する必要はないだろう。むしろ私は電気照明がまだない江戸幕府以前の世界や、それ以後であっても電灯の普及が遅れた、都市部ではない周辺の辺鄙な地方を想起する。月も星も見えないまっくらな闇夜に、どこかの火事の明かりが小さく天を照らしている光景が目に浮かぶ。「関東平野」というずいぶん大きなもの不可視のものと、それと対照的に「遠火事」の実景的ではあるものの小さな明かりを並べてみたところはさすがというしかない。/火事は冬の季語である。寒いときには火による暖房を用いるしかなかったためということらしい。手元の歳時記には説明として「冬は空気が乾燥しているので、〜」とあって、それは雪があまり降らない太平洋側のことを言ってるにすぎないことがわかる。雪国は冬ぶんは逆に湿度が高くなるので、この説明はあてはまらない。

ざぶざぶと鯨の碑より春の虹

たしか地元にも鯨の碑(いしぶみ)があったはずだと思っていたが、ちょっと調べきれなかった。当地では日常的に鯨を捕獲するよな漁撈文化は存在しないので、たまたま何かの拍子で浜辺に打ち上げられた鯨に驚き、それを弔ったものだったように記憶している。/鯨ではないがサケやナマズやクマの碑というものもよくあり、それらは他の動物の命をも大切なものとして考えたからというよりは、それもいくらかはあったにせよ、もともとは食料源として古来より大量に捕殺してきた鮭などのたたりを恐れたからというのが本音であろう。自分が殺したのにその相手からの怒り恨み祟りをしずめるために祀るという、人間同士の争いにもよくあるパターンで、どこまでも自分たちの一方的な都合なのだ。

 

ブナの丸太

 

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庄内町のSさんからブナの丸太をいただきました。ご自宅の庭に植えたブナが大きくなりすぎて日陰になって洗濯物が乾かない、建物のすぐ近くの位置にあるため根張りによる基礎への影響が心配、といった理由で自力で伐採したのだそうです。Sさんとは山登りの関係で知り合い、また以前家具のご注文をいただいたこともあるという間柄です。

払った枝も含めて全部もらいうけたのですが、樹齢25年ということで、いちばん太い幹の部分でも目通り20cmくらいの太さ。これをどう活用するかですが、放置したのでは乾燥によるひび割れや、生材ゆえの変色や虫食いの恐れがあるので、早急になんらかの処置をする必要があります。いちおうお話をいただいたときに考えていたことはあるのですが、それがうまくいくかどうかは試験してみないとわかりません。

ブナはすこし高い山間部にはまだ生えていますが、ほとんどは国有林内にあり通常は伐採はできません。かつての営林署時代(今は森林管理局?)のように、公共財のはずなのに自然林のブナ等の樹木を勝手に民間に払い下げてめちゃくちゃ皆伐してしまったという悪行・悪夢を再現してはいけません。したがってブナが材木市場に出てくることも今はほとんどなくなったので、日本産のブナは逆にたいへん貴重なものとなっています。

 

タモの共木の幅広板

 

 じつは下記の文章等は1年ほど前に下書きとして書いて保存したものです。ところがその後このタモの材料を用いて、酒田市のSさんのテーブルを作らせていただいたので、記事として公開するタイミングをなんとなく逸してしまいました。しかしながらそのこととは別に、内容的には材料仕入れに関わる普遍的な課題をわりあい詳しく書いているので、その意味であらためて復活掲載することにしました。

 


今はまずありませんが、10数年前までは木材は丸太の原木で購入し、こちらが希望するように製材してもらうのが基本でした。柾目に挽くのか板目にするのか、耳付きでいいのか耳を落とすのか、角材か平板か、寸法はどうするのかといったことがかなりの程度に自由になるからです。ただ製材には必ず立ち会う必要がありますし、挽いてもらうそばから材料にシリアルナンバー(連番)や厚さなどを大急ぎで記入するなど、いろいろと手間がかかります。一人では困難で、当時は助手(弟子)がいたからできたことです。

原木の値段は、挽いて乾燥してありすぐに使える木材、すなわち材木屋さんとしての「製品」と比較すると驚くほど安いです。場合によりものによっては2〜3割くらい。それもそのはずで、まず当たり外れがあります。丸太の値段はあくまでも外観からの判断で売り買いするので、いくらベテランであっても外れることはあります。その意味では半分ばくちみたいなもの。また製材賃や乾燥費用がかかりますし、実際に家具などに使用できるようになるまでの時間や保管場所や養生の手間も必要だからです。

いちばんなじみの地元の材木屋さんが製材事業から撤退したこともきっかけですが、諸々の手間やリスクを考えると、結局必要な材料をそのつどその時に「製品」で購入したほうがいいという結論になりました。価格は高くても外れはほとんどありませんし、無駄なく使えるからです。保管や、使用見込みと実需とのギャップに悩むこともありません。

それで下の4枚の写真ですが、1997年に丸太で3本購入して製材してもらったタモの一部です。あらかたは使ってしまったのですが、この長さ2.6mの板はそのなかでももっとも上等な部類になります。同一の原木からの連番の板なので、当たり前ですが木目はよく似ています。人工乾燥済みです。

厚さは42mm、幅は480〜550mmですが、長さは両木口の割れをのぞくと2200〜2340mmとなります。できれば同じ寸法にカットして2枚剝ぎでテーブルの甲板にすればもっとも活きると思います。その場合は長さ2200、奥行き(幅)900mmが最大寸法になるでしょうか。木裏を上向き、木表を下向きに使うのが原則なので、木表の面にわずかに残った耳などは完全に除去したとしての寸法です。とくに家庭で使われるテーブルの場合は、長さは部屋に置けるかぎり大きい方がいいのですが、奥行きは850〜900mmくらいが使いやすいと考えています。

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クライマー

 

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わが家の飼い猫アル(Albiflora ラテン語で白い花の意)が本棚に爪をひっかけてロフトに登ろうとしています。最近になって覚えた方法で、ロフトに上がるルートはもっと簡単な別ルートもあるのですが、あえてちょっとめんどうな選択をしています。つまり高さ2.4mのクライミングをして遊んでいるわけですね。

 

約2年前に捨てられていたのをもらいうけた猫なのですが、非常に活発で運動神経もすぐれています。1mくらいは簡単にハイジャンプしますし、空中で180度体の向きを変えるなんてことも朝飯前。見てのとおりで贅肉がまったくありません。体重は2.8kgです。

ところがこのアルは獣医さんの診察によると心臓の弁膜がやや肥大していて、軽度の狭心症だとのこと。それで月に一回ほど診察と薬をもらいに行っています。外観からは想像もできませんが、ペットにも人間同様いろいろ心配があります。

 

丸形の被蓋くり物6点完成

 

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前回2月下旬に引き続き、旋盤を使って製作中だった被蓋くり物の残り6点が完成しました。基本的には10月の個展に出品する予定のものです。素材はいちばん右側の1点はオニグルミの変杢(鶉杢)ですが、他はみな黒柿です。黒柿は紋様がはっきり出るように鏡面塗装仕上ですが、オニグルミは半艶です。

形態としては全部被蓋の器ですが、実の下部だけを蓋の径と同寸にした、変形の被蓋も2点作りました。個々の詳細については近日中にまたあらためて紹介します。

 

コーヒーブレーク 73 「分厚きところ」

 

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如月の眼映りし研刃かな

如月は陰暦二月の名前だが、語源としては寒さがぶりかえして着物をさらに重ねて着ることから「着更着(きさらぎ)」とする説がいちばん有力のようである。ほかには気候が陽気になってきて「気更来」「息更来」や、草木が生え始める頃なので「生更木」、芽が張り出す「草木張り月」の転化とする説も。新暦(陽暦・太陽暦)では3月半ば頃から4月の半ばであることを考えれば、まあそれぞれに頷けるものはある。/一方、二十四節気は太陰暦で一年を二十四等分としてそれぞれの区切りと区切られた期間に名前をつけたもので、かなりいい加減というか、あくまでも方便・便宜的なものである。例えば「立春」は新暦では2月4日頃であるが、二十四等分にしてしまったからそう名付けただけのことで、実態と合っているとはとてもいいがたい。これは以前にも言及したことだが、2月初めといえば厳寒期で、すくなくとも当地では一年でもっとも寒さのきびしいときである。それを「立春」だから春が来たとは強引すぎるだろう。日が伸びてきたというなら、冬至をすぎた12月の終わり頃からすでにそうであるし、12月、1月でもたまに天気がよくて温かい日があり、それはべつに2月初めからのことに限らない。/春めいてきたということと、春そのものであるということの区別を、他人(中国)がこしらえた暦ではなく己の実感でしっかり把握することこそが季節の移り変わりに敏感になるということであろう。

薄氷に分厚きところありにけり

薄氷を「うすらい」と読むことは、二十年近く前に俳句を作りはじめてからはじめて知った。俳句特有・限定の読みかと思っていたが、調べてみると食べ物やガラス細工等にもわりあいよく用いられているようである。/俳句で薄氷を「はくひょう」「うすごおり」と読むことはむしろ稀で、たいていの場合「うすらい」と読むのは、五七五の音調に合わせて「薄氷や」「薄氷の」という具合に使いたいとする俳人の都合上のことだろう。や・の、などを使わないで薄氷を5音で使いたい場合は「うすごおり」とするわけで、俳句はなかなかにくせものである。なお、薄氷は冬ではなく春の季語。もう氷が張るにしてもすぐ溶けてしまうような薄い氷しか張らないくらいには暖かくなってきたな、ということで。

超高層マンション背面より春の雨

高層住宅は住人の健康上マイナス面が多い、という話もいろいろ聞こえてくる。単純に考えて、いちいち階下に上り下りするのはめんどうなので、あまり外に出歩かなくなるからという理由もあるが、もっと別の複雑な理由もあるらしい。ほんとうのところはどうなんだろう。超高層というほどではないが、知り合いでそういう高い建物に住んでいる人もいるので、こんど聞いてみようかね。/個建住宅だと防犯上のおそれがあるとか、多かれ少なかれ庭があることによってその手入れにも手間暇がかかってたいへんという人もいるが、私はやっぱり個別の住宅のほうがだんぜんいいな。庭なども虚勢や見栄を張らなければまあ適当でいいし。