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青猫句会 2016.12.21

 

定例の青猫句会12月ぶんです。毎回、この句会は酒田駅にほど近い「アングラーズ・カフェ」というお店を借り切って、午後6半〜9時に開催しています。今回の参加者は相蘇清太郎・今井富世・大江進・大場昭子・佐藤歌音・佐藤や志夫(やは弓+爾)・南悠一、当句のみは齋藤豊司の、合わせて8名でした。

句会はここでは其の一と其の二の2部にわけて行います。参加者は事前に無記名で2句投句するのですが、おおむね当季の季語を入れるという以外の制約はありません。五七五の定型や旧仮名遣いも強制ではありません。
では其の一から。

4 終日身を投げ出して冬の波
3 冬ざれや重たき頭に眉画きぬ
2 里神楽精霊交りて長閑なり
1 雪来るをこんこんと待つ愚夫愚妻
0 石棺の雪の即身仏の物語る
2 美ら海のあまたの命冬茜
1 大根の身も凍みあがる冬至まえ
1 冬いちごのタルトあえかな水底

最高点は最初の句の<終日身を投げ出して冬の波>です。日本海は冬の間は北西の風がもろに吹きあたるので、波が高いことがふつうです。波頭がど〜んとくずおれる様は、まるで五体投地のよう。ただしこの句は必ずしも波自体の様相だけを表しているのではなく、それを眺めている人間の心理をも表しているようです。「終日(ひもすがら)」→「終日(ひねもす)」ときくとどうしても与謝蕪村の超有名句<春の海ひねもすのたりのたりかな>を想いだしてしまいますが、それとの対比もあります。作者は私です。

次点3点句は2句目の<冬ざれや重たき頭に眉画きぬ>。冬場の荒涼とした景観のなかにあって人の心もどうしても重く暗くなりがちですが、頭(こうべ)に眉を描く=心機一転をはかる、という感じは共感できます。いつまでもこうして沈んではいられないという。私も取りました。しかし作者の相蘇清太郎さんによれば、これは亡くなった母上のこととのことで、つまり死化粧ですね。たしかにそれならば「顔に眉」ではなく「頭に眉」です。

2点句は二つ。はじめの<里神楽精霊交りて長閑なり>は民衆の踊りである里神楽を舞っているうちにいつしか霊がのりうつってしまったという図ですが、それは長閑とは言いがたいのではないでしょうか。むしろかなり怖い、気味のわるい状況ですね。もちろんそのあとで「われにかえって」最後はなごやかな雰囲気のうちに終了したのかもしれませんが。作者は齋藤豊司さん。

次の<美ら海のあまたの命冬茜>は、美ら海といえば沖縄の光り輝く豊穣な海をイメージします。「数多の命」ですね。けれどもそれ+冬の夕焼となると絵はがき的になってしまい、かえって嘘くさく軽くなってしまうようです。作者は佐藤歌音さんですが、先般沖縄に行かれたそうです。海に向かい、美しいだけでなく多くの戦没者のことを思ったとのことですが、読者にはそれは伝わりにくいでしょう。

1点句<冬いちごのタルトあえかな水底>は私が取りました。苺のゼリーを使ったタルトという菓子の、赤く透けて見える様が水底のようだという感覚は新鮮です。しかし語調はあまりよくないと思います。俳句というより詩の一節のようで、ぶつ切り感があります。作者は南悠一さん。

点数は入りませんでしたが<石棺の雪の即身仏の物語る>について。まず読みですが「かろうとの ゆきのほとけの ものがたる」とのこと。即身仏とはわが身をミイラ化して仏と成すということですが、作者の佐藤や志夫さんの話では全国に22体ある即身仏のうち6体が庄内地方にあるとか。断食をして身体の余剰を極力そぎおとしてから土中に籠るのですが、木製の囲いだけでは腐ってしまうので、石で囲った空間に設置するようです。それが「かろうと」。しかしながら、宗教的な熱意というよりは実態としては「寺の経営上の理由」というのがほんとうのところだと。したがって地下に籠るのは上位の僧侶ではなく最も下位の僧侶であるとか、行き倒れた無名人を身代わりに仕立てたらしいとも。ただ俳句としては「かろうと」ではほとんど誰にも意味不明でしょうし、即身仏に「ほとけ」とルビをふることや、最後に「物語る」と結んでしまうのもよくないと私は考えます。

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参加人数が少ないと句を取った人も取らない人も全員が発言し、全部の句に言及できるのはいいのですが、半面誰の句であるかがすぐ分かってしまいがちで、緊張感にも欠けるというきらいがあるかもしれません。
小休止のあと、其の二です。

1 心にもうらおもてあり虎落笛
1 風さえも容赦も無しの師走かな
2 大霜の残土の山のかがやけり
3 約束の経帷子を掛け遣らむ
3 木もれ日のあまねく冬薔薇に注ぎ
0 冬ざれに異界垣間見股のぞき
3 雪蛍捕らえそこねて一人ぼち
1 ああデュラン無血革命秋震え

最高点は3点で3句ありました。最初の<約束の経帷子を掛け遣らむ>は句意は明瞭で、亡くなった方に生前に約束してあった経帷子を掛けて納棺したということですね。「約束の」が効いていますし、「掛けやらむ」という強い意志をあらわす措辞もいいです。私も取りました。作者は相蘇清太郎さんです。

次の3点句<木もれ日のあまねく冬薔薇に注ぎ>は、冬のバラだからこそ木漏れ日が効果的です。木漏れ日といっても落葉樹が多い当地では樹幹や枝越しの拡散した淡い日差しかと思いますが、咲いている花の少ない時季なのでよけい咲いたバラが注目される、日の光を集めているようだということでしょう。もちろん「あまねく」はバラを眺めている人間側の心理的なものです。作者は南悠一さん。

最後の3点句は<雪蛍捕らえそこねて一人ぼち>は私はすこし感傷的すぎるなと感じました。雪蛍は綿虫のことですが、大きさもせいぜい4mm程度で弱々しく飛ぶだけなので逆に捕獲しがたいかもしれません。「捕らえそこね」たのは実際には綿虫ではなく別のなにかの比喩ととってもいいかと思いますが。ああ、でも何度も読んでいるうちにけっこういい句かなと思えてきました。作者は大場昭子さん。

次点2点句の<大霜の残土の山のかがやけり>は私の句です。残土は土木や建築工事などの際に、地面を掘削した後の不要となった土砂のことです。瓦礫や泥が混じっていることも多く、一般には嫌われてしまうようなものですが、それが一面の霜におおわれることで光り輝いているという光景です。建設現場などで早朝にときおり見かける光景です。残土を俳句に詠んだ例はあまりないと思うのですが、むろん残土は他のもろもろの比喩でもあります。

1点句または無得点句ですが<ああデュラン無血革命秋震え>は私が消去法として取りました。ただ「デュラン」ではなく、日本語の表記では慣例としてはやはり「ディラン」でしょう。作者は齋藤豊司さん。<冬ざれに異界垣間見股のぞき>は、股のぞきに「異界」はおおげさじゃないですかね。異界はもっとおどろおどろしいもの、怖いものというニュアンスですから。

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みなさん、仕事その他で都合がつかない方もおり、今回も出席は7名でした。あまり多すぎるのもたいへんですが、若干の欠席はありうるものと考えると、もうすこしメンバーがほしいと思います。俳句に興味関心のある方はまず「見学」にでもどうぞおいでくださいませ。次回は1月18日(水)、午後6時半からの予定です。