日別アーカイブ: 2016年8月1日

青猫句会 2016.7.20

 

これまで「シテ句会」という名称で行ってきた句会ですが、本体の「シテの会」の同人以外の参加者が増えてきたこともあり、また別会計とする必要もあるため、今月(7月)の句会から「青猫句会」と名称をあらためました。(青は旧字の青、下のほうが月ではなく円の青です。しかし私のパソコンのワープロでは旧字は出てきません。悪しからず)。青猫句会はこれまでと同様に毎月第三水曜日の午後6時半〜9時、酒田駅に近い「アングラーズカフェ」にて開催します。

本体の『シテ』は現代詩・俳句・短歌などの短詩系の作品の発表とその批評を目的とする季刊の同人誌ですが、現在10号まで発刊しています。次回11号は9月に発刊の予定です。

さて青猫句会としては初の句会ですが、参加者は相蘇清太郎・今井富世・大江進・大場昭子・齋藤豊司・佐藤喜和子・佐藤百恵・土田貴文・南悠一の9名。20歳代の新人2名もくわえての新たなスタートです。

句会のすすめ方は一般的な方法のとおりですが、事前に無記名で2句投句し、当日は清記された2枚の句群ごとにそれぞれ2句ずつ選句。その句を取った人、また取らなかった人もおのおの披講を行い、その後にはじめて作者名が明かされます。これは先入観を排し、できるだけ忌憚のない批評を相互にかわすための古来からの工夫です。「先生」のお言葉をありがたく頂戴する、というような句会では意味がありません。また高得点の句がかならずしも最もすぐれた句であるとはかぎらず、むしろ参加者がそれぞれの句にどのような感慨をいだき発話がなされたかがとても重要です。

以下の記述は当句会の主宰をつとめる私(大江進)からみての講評です。もちろん異論反論もあるかと思いますので、コメントをいただければ幸いです。さて、では其の一から。

1 万緑のところどころの擬木かな
1 蛍火をてさぐるごとく鵺の鳴く
5 ぼうぼうと記憶のふたに草茂る
0 反骨の茨木のり子半夏生
5 背泳の広がる空の恐ろしく
0 夕立に行方くらまし横恋慕
0 波頭先烏賊釣り犇き漁火燃え
5 うすものの胸の高さよ海抜は
1 夏至の陽や母の眠りの深きかな

最高点5点句が3句あり、他は1か0と珍しく二分しました。最初の<ぼうぼうと記憶のふたに草茂る>は生い茂った草が、まるで蓋をした記憶にさらに蓋をして閉じ込めてしまったようだと言ったところがいいですね。春先などのまだ草が萌え出して間もないころの景観と、背丈を超えるほどに繁茂した景観とでは、同じ場所であってもまるで印象が異なります。それは住宅地などで、いつのまにか建物が壊されて更地になってしまい、早くも草が茂りだしている光景にも強く感じることです。私も取りました。作者は土田貴文さん。

次の5点句の<背泳の広がる空の恐ろしく>は、一読して石田郷子の有名な句「背泳ぎの空のだんだんおそろしく」を想起しました。偶然の一致でしょうが、ほとんど同じといっていい句です。情景や情感はたいへんよくわかるのですが、自分がそのように感じたということはきっと他の人も感じたであろうし、同工異曲の先行句がある可能性が高い。投稿する前にインターネットなどでチェックしてみることです。作者は大場昭子さん。

3つ目の5点句は<うすものの胸の高さよ海抜は>です。これは座五の「海抜は」に着目です。うすもの(羅)は夏の季語で、絽・紗・薄衣などと同じく、薄く軽い布で仕立てた単衣の衣類またはその生地のこと。当然ながらそれをまとうと体形があらわになりますが、「うすもの」であることによって軽快でさわやかな感じになりました。しかし問題は「海抜」ですね。それをどう解釈するかは人それぞれでしょうが、これで急に現代的な雰囲気になりましたね。私も取りました。作者は南悠一さん。

次点1点句は3句。<万緑のところどころの擬木かな>は鬱蒼たる緑一面と見えてはいても、とくに日本の場合はよくよく見れば必ずといっていいほどに人工物が混じっています。道路であるとか鉄塔や建物であるとかだけでなく、ほんものの樹木に似せたコンクリートや樹脂製の擬木も。そのあたりを嘆いているのか、皮肉っているのか。作者は私です。

<蛍火をてさぐるごとく鵺の鳴く>の鵺(ぬえ)は暗い森の中で甲高い一本調子で鳴く鳥で、いまはトラツグミであることがわかっていますが、たしかにいささか気味のわるい感じがします。しかし蛍火との取り合わせでは、やはりつきすぎでしょうね。作者は今井富世さん。

<夏至の陽や母の眠りの深きかな>は「日」ではなく「陽」とした点がかえって句意をわかりにくくしたきらいがあるかもしれません。それが眠っている母をどう解釈するのかのをさらに戸惑わせていると思います。作者は相蘇清太郎さん。

無得点句からは1句だけ触れます。<夕立に行方くらまし横恋慕>は川柳的な味わいですが、横恋慕してちょっと気まずい雰囲気でいたところに、ちょうどいい具合に夕立がやってきたという景でしょう。行方をくらましたのは誰あるいは何なのかという箇所で読者はつまずくかもです。作者は佐藤百恵さん。

人それぞれ性格も思考や感覚も異なるので、年齢でひとくくりするつもりはまったくありませんが、それでも20台の若手の新人が入ると句会の雰囲気が変わるのはたしかですね。えっ、そんなふうに解釈するのか!と思うこともあり、それが論評の糸口になったりしますから。

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さて其の二です。

0 夕闇のひとり寂しきぶらんこよ(ぶらんこは漢字)
7 水の皮切り裂くごとく虎が雨
1 睡蓮や葉陰に目高放ちたる
3 これでもかこれでもかと滝落ちぬ
1 空蝉の寿命が尽きぬ松の枝
3 山ぼうぼうホウタルはみなまぼろし
2 天と地の力もて在る泰山木
1 田は青く耳の底にて蛙鳴く
0 立ち込めた雲に紫陽花の空あり

最高点は7点句の<水の皮切り裂くごとく虎が雨>ですが、そもそも「虎が雨」という夏の季語を知らないと観賞は難しいですね。私もこの言葉はよくお目にかかりはするものの詳しくは知りませんでした。手元の歳時記には「〜鎌倉時代の武士、曾我十朗祐成の愛人であった大磯の遊女虎御前が、十朗の死を悼んで涙の雨を降らせる」とあります。号泣したということですかね。だとすると「水面」ではなく「水の皮」としたのは虎御前の虎にかけたと思われますが、やはり過剰でありくどい感じがします。私もいちおう取ることは取ったのですが。作者は大場昭子さん。

次点3点句は2句。<これでもかこれでもかと滝落ちぬ>は、韻を踏んでいて水の勢いが目に浮かぶ。しかし「これでもか」の繰り返しは他にもありそうという意見も。じつは私の句ですが、一段の滝の落水のようすではなく、多段の滝や、二ノ滝渓谷のように三ノ滝・間ノ滝・二ノ滝・一ノ滝と断続的に大きな滝があらわれるような谷川の光景を頭に描いていました。後者のような滝を連想された方はいませんでしたので、まあうまくいきませんね。

次の3点句<山ぼうぼうホウタルはみなまぼろし>は音調もそうですが、ホタルをホウタルとしたことや、最後を「みなまぼろし」としたことも、なんだか全体に弛緩した空気があります。蛍はそもそもが幻みたいな存在なので、むしろどこかでぴしっと締めたほうが逆に蛍が活きてくるのではないでしょうか。作者は南悠一さん。

2点句は1句。<天と地の力もて在る泰山木>は、座五が動きます。天地(あめつち)の力で成り立っているものはそれこそ無数にあり、樹木に限ってもケヤキとかナラとかクスノキ・スギとか、見上げるような大木はいろいろあります。泰山木を生かしたいのであれば上・中に泰山木ならではのものを具体的に持ってこないと。作者は佐藤喜和子さん。

1点句は3句。<睡蓮や葉陰に目高放ちたる>は、睡蓮は花もさることながらあの丸い大きな葉がとても目立ちます。そこにメダカですから、そのまますぎる情景ですね。なお睡蓮もメダカも夏の季語です。作者は相蘇清太郎さん。

<空蝉の寿命が尽きぬ松の枝>はセミが羽化して抜け殻となった空蝉にも寿命がある、とした目のつけどころがいいです。環境によっては前年の抜け殻がそのまま年を越しても残っていることがあります。しかし落枝とともに空蝉も地面に落ちてしまったということでしょうか。作者は佐藤百恵さん。

<田は青く耳の底にて蛙鳴く>は私だけ取ったようです。田が青いというのですから日中ですが、ふつうは聞こえないはずのカエルがどこかで鳴いている。いやよくよく聴くと自分の耳の奥から聞こえてくるみたいだ、ということでしょうか。いわゆる耳鳴りなわけです。あるいは一面に広がる水田を眺めながら、昔はたくさんいたカエルの姿に思いをはせているといったところか。作者は今井富世さん。

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シテ句会から通算2年くらい句会を開いており、ずっと参加してきている人もいるので、青猫句会では年に一度くらいは俳句誌を印刷物として出したいと考えています。これまで句会等に投稿した句が中心ですが、その他の記事も若干含みます。9月には発刊できるように準備中です。