日別アーカイブ: 2016年6月2日

コーヒーブレーク 80 「宇宙の人」

 

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ぶらんこに巨人が立ちて慟哭す

[ぶらんこに きょじんがたちて どうこくす] 小学生の頃、ぶらんこを思いっきり大きくこいで先に行ったところで手を離して着地、その飛距離を競うなんてことをやっていた。もちろん危険ではあるのだが、大怪我をするようなどじな者はいなかったし、教師も「あぶないから止めろ!」と言うこともなかった。またすぐ近くに月光川本流があり、しょっちゅう魚採りをしていたのだが、まだダムもなかったのでところどころに背が立たないくらいの深い淵もあったのだが、やはり教師も親も「あぶないからやめろ!」ということはなかった。/「河童の川流れ」といって、何年かに一度は川で遊んでいて溺れて死んでしまう子供もいたのだが、それで学校や河川局の管理責任を問うなどという馬鹿な大人もいなかったと思う。悲しくはあるが絶好の子供の楽しみを奪うのはいけない、禁止ばかりでは何が危ないかという判断も身につかない、という常識的な思考はあっただろう。/しかしそれも小学生の頃だけの話で、その後は急速に前もっての危険回避=責任回避ということで、川や山や海など自然のなかでの遊びがどんどん禁止されてしまう。大人が、子供自身にとってなにが幸いなのかを第一に考えるよりも、事故などがあった際に自分に非難や問責がおよぶことをまずなによりも心配するようになってしまった。

抜かれたる腸の記憶やこいのぼり

[ぬかれたる わたのきおくや こいのぼり] 鯉が滝をのぼっている姿がよく絵に描かれるが、鯉にはそれほど強力な遊泳力はないので、滝はおろか2m程度の小さな堰堤でも自力で越えることは不可能である。その点、渓流魚のイワナやカワマス(サクラマス)などは水量さえ多ければ何メートルもの落差のある激流をぐいぐいのぼっていく。/山中でもっとも高いところに生息している魚はやはりイワナだ。秋口に湧水の調査などで沢を遡行していると、森林限界にほど近いところの、もはや沢ともいえない小さな流れに背びれを水面から出してイワナが泳いでいることがあってびっくりする。むろん言うまでもないが落差の大きな垂直の滝は、いくらイワナであってものぼれないので、それより上流にイワナがいる場合は、釣り人が釣った魚をそこに持って行って離したからである。生息環境が良ければ魚はそこで生きながらえ繁殖するだろう。釣り人にとっては自然の中のマイ釣り堀のようなものではある。/私自身は釣りはまったくしないので、釣り人のイワナ放流の話は又聞きですけどね。

宇宙の人二三来たりて青き踏む

[うちゅうのひと にさんきたりて あおきふむ] この宇宙にヒト=ホモサピエンス-ホモサピエンスと同様の生物は、すなわち宇宙人は結局地球にしかいないというべきではある。なんとなれば確率的に地球と似たような惑星が宇宙にはじつはたくさんあるはずだといっても、そしてそこの一部には高等生物が存在するとしても、われわれと相互に往来したり交信できる可能性が実施ゼロであれば、、それはお互いに相手が存在しないことと同じだからである。光速でさえ何万年もかかるところにいる他の宇宙人と、いったいどうやって遭遇できるというのか?/春先に萌え出た草原に、柔らかな陽光を浴びながら裸足になってくり出すのはじつに楽しい。人間のみならず犬や猫などもそのように感じているようではある。他の宇宙人はかの星でそうした快楽を味わっているだろうか。