月別アーカイブ: 7月 2013

胴腹ノ滝も大増水

DSCN0410_2今日の12時すぎに2週間ぶりに胴腹ノ滝に調査&水汲みに行ってみたのですが、すごい増水で驚きました。今年最大かと思っていた5月20日の水量を明らかに超えています。最初の写真は左側の滝の写真ですが、「いったいどこの滝?」と思うような景観です。2枚目の写真はやや下流の水汲み場のところから撮ったものですが、これでも水量が非常に多いことがよくわかりますね。

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梅雨に入り、ほとんど毎日のように雨が降っていたのですが、それが河川だけでなく湧水にも影響を与えているようです。もちろん直接的に胴腹ノ滝に雨水が混入しているというのではなく、雨水の地中への浸透量が多くなって地下水圧が高まり、それがもともとあった湧水のもととなっている地下水を押し出しているのだと考えられます。

水温は右が9.3℃、左が9.1℃でした。気温は18.1℃です。6月17日が右・左ともに8.7℃(気温20.9℃)、6月30日が右8.8℃、左8.7℃(気温19.4℃)でしたから、今回は水量だけでなく温度も高めです。下の写真は胴腹ノ滝の鳥居の前の渓流ですが、ここもかなり増水していて橋の上に水が迫っています。上流に大きな湧水があるものの、現在の流水の大部分は雨水であろうと思います。水温が11.6℃あることからもそれは裏付けられるでしょう。

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荒瀬川増水

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連日の雨で、川が増水しています。工房のすぐそばの荒瀬川は、鳥海山および出羽山地から日本海に向かって流れ出す日向川のいちばん大きな支流ですが、ここもかなりの水かさになっています。危険水高には至っていませんが、激しい濁流で地面全体がうなりをあげているようです。

大量の川水に空気が冷やされてか川面に霧がたちこめています。美しいといえなくもありませんが、万が一足を滑らせて流れに落ちたら絶対に助からないでしょう。撮影もおそるおそるといったところ。

 

ガーデンテーブル

3年前に納品したガーデンテーブルですが、日よけの大きなパラソルがいっしょに使えるようにしてもらいたいとのお客様のご希望で、テーブル甲板に直径50mmほどの穴をあけました。

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写真は当工房での作業中のものですが、後方に置いてあるのが脚部で、甲板下の四角く組んだ幕板内にぴったり収まるようになります。このテーブルを使用するのは夏季だけなので、使わない間は折り畳んで収納できるようにしてあります。全体の大きさは幅1620mm、奥行685mm、高さ630mmです。材料はイペやウリンなどと並んで屋外での耐候性が非常に高いジャケツイバラ科のアフゼリア。硬くて重い木です。一説には無塗装&特段のメンテナンスなしでも野ざらしで20年は保つとか。また時間経過で表面が銀色になったときも、それはそれでまたとても味わいがあり美しいです。

じつは昨年までは日よけ・雨よけにタープ状のものを使用されていたのですが、使い勝手や見た目があまりよくない。ということで、都市部のカフェテリアなどで採用されている大きなパラソルを使うことになったのですが、そのままでは当然テーブル全体を覆う日よけにはなりませんし、少し風があるだけでも不安定です。そこでテーブルのほぼ中央にパラソルの軸が貫通する穴をあけ、テーブル下の地面に置いた鋳物製ベースプレートへの差し込みと合わせて2点で軸を支えることにしたわけです。

また甲板の中央にただ穴をあけたのでは脚部のX型に交差する貫にあたってしまいます。したがって貫に干渉しない範囲でできるだけテーブルの中央に穴をあけパラソルを立てるという、それなりに微妙な加工が必要です。穴もきれいに開けなくては。ということで、工房にテーブルとパラソル一式を運び込み、テーブルを仮組して位置出しをして加工しました。

梅雨に入り連日雨が降り続いていますので、ちょっと先になろうかと思いますが、お客様の庭で実際にテーブル+パラソルをセッティングされている様子を後日また紹介しましょう。

 

棚板ふたつ

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酒田市内某宅のトイレ改装工事。従来のトイレを倍近く面積を広げるにともない、便器の左右に棚板を設けます。右側には手すりを兼ねた壁から壁までの長い小幅の棚板。左側には手洗器の高さとそろえた奥行30cmの棚板です。写真は壁紙を貼る前の段階ですが、だいたいの感じはお分かりになりますでしょうか?

ともにオニグルミの一枚板ですが、家具材としてはふだんは使わない白太の部分も意識的に活用しています。無垢材の自然な味が出るのですが、耳付きの不定形の棚板は私はあまり好きではないので、耳は落として直線にしています。また便器で用を足す場合の座り込みと立ち上がりの補助として、短い縦の手すりも設けています。今は水平・垂直のトイレ用手すりがメーカーからセットで売り出されていますが、今回のトイレの雰囲気にはあわないし面白みもないので、あえてクルミ材から削り出し、棚板と柱とにがっちり固定しています。

壁などが仕上がってから後付けで棚板を取り付けたほうが作業的には楽なのですが、それだとどうしても支持の腕木や桟などが必要になってしまい、見た目にすっきりしません。それで壁を張る前に先に棚板を取り付けてしまいました。その後の木工事やクロス張りの工事はよけいな手間がかかりますが、棚板だけが壁から突き出ているような仕上がりになるはずなので、感じはいいかなと思います。

改装工事(リフォーム)は予想外のできごとが多く、建物本体が構造的にすこし歪みが来ていたり、既存部分との取り合いが難しいなどで、同規模の新築工事にくらべずっと手間がかかります。それにお客様が生活しているそばでの工事なので、騒音や粉塵・時間帯などもできるだけ抑えないといけません。実際このトイレ改装工事も予定よりだいぶ遅れていて、ご迷惑をおかけしています。もうしわけないです。

 

ペーパーホルダー

工事中のトイレ改装ですが、それに使用するペーパーホルダー(紙巻器)もこの際新調することにしました。便器を新しくするとペーパーホルダーがおまけで付いてくることもあるのですが、ほとんどはプラスチック製のごく普通のもの。それでもじゅうぶん用は足りるのですが、今回の新しいトイレにはいまいち感があります。

それで別途にインターネット通販で探して、金属製のシンプルでデザインのいい、しかも予算内で間に合うそれほど高価ではない製品を取り寄せました。それが写真のカワジュン(河淳)のペーパーホルダー、SA−513−XCです。カワジュンはレバーやハンドルを中心に建築・家具金物を作っている中堅メーカーです。当工房でも注文家具などにカワジュンの把手などを採用したことが何度もあります。

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さてこのペーパーホルダーですが、素材はカバーは真鍮、ホルダーはステンレス、取付金具は亜鉛ダイキャストですが、いずれもクローム鏡面仕上。ホルダーは左右どちらの向きにも変更可能。写真は撮影のためにダミーでボードに仮付したものですが、取付金具は台座を先に壁に付けたあと本体を下からボルト締めする形式で、表からはネジ等が見えないようになっています。

全体的に非常にシンプルでしっかりした作り。仕上げもとてもきれいで、高級感があります。よく見かけるプラスチック製のペーパーホルダーとはまるで違います。

便器や手洗器、給排水の水栓金具、照明器具、ドアとそのハンドル&ドアクローザーといった個々のアイテムとトイレ全体の雰囲気とのマッチングがだいじで、「普通の」トイレにペーパーホルダーだけこういったものを採用してもかえって変な感じになってしまうかもしれません。

 

YouTube をみる猫2

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パソコンでユーチューブ(YouTube)を開いて音楽を聴いていると猫のトントがおもしろいように反応。歌っているのはカナダのクリスタル-キャッスルズ(Crystal Castles)というカナダのデュオですが、その動きをじっと眺めています。ときどきカメラのアングルが切り替わるとちょっとびくっとなっています。

このときかかっていたのはCrimewabeという曲ですが、パンク+プログレッシブ的なたいへん個性的な曲で、私は大のお気に入りです。その他によく聴くのはCelestica、Suffocation、Baptism など。アルバムも2枚持っています。

私は1980年発表のデビッド– ボウイの『ロウ(Low)』でいわば音楽に開眼して以来ずっと英米のロック=現代音楽・前衛音楽よりのロックに親しんできたので、日本のロックなどにはほとんど興味が持てません。なんだか昔きいたあちらのあの曲のコピーにしか聞こえないからです。

 

スプルス無地柾目長尺板

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工房のパネルソーに立てかけた、スプルスの無地板です。建具・建築造作材用に厚さ38mm、幅220mmですが、長さは4mあるので、2700mmまでカットできるシンクスのパネルソーが小さく見えます。

4月20日の記事でやはりスプルスを紹介しましたが、そちらは幅400mm前後の無地柾目板という超弩級の材料。今回のは幅こそ220mmですが、長さがあるので建具の縦框を長さ方向に2本とることもできそうです。それに白太と芯近くをあらかじめ除去しているので、幅もほぼそのまま有効に使用できます。こうして写真でぱっと見ると、うそくさいくらいに白くきれいで、突板かなにかみたいです。

手持ちのスプルスでちょうど頃合いのものがなかったので、いつも取引のある地元の建材屋さん経由で急ぎ7枚(約0.23m^3)購入したものですが、値段のほうはちょっと口にできないくらい高価でした。ははは。

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グランドセイコー

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だいぶ前ですが、新聞広告として載っていた腕時計です。セイコー(SEIKO)の「グランドセイコー」というメカニカル式の手巻きのオーソドックスな時計ですが、驚くのはその値段。外装の材質の違いによって差があり、18Kホワイトゴールドのは1680000円、18Kイエローゴールドと18Kピンクゴールドが1575000円、いちばん安いのはステンレスかチタンでしょうか、それでも472500円もします(税込希望小売価格)。10万円台じゃなく100万円台ですよ。数量も限定で、それぞれ70、70、70、700個。

世界的にはもっと高い、1000万円を超えるような腕時計も存在しますが、こういった機械式高級腕時計の製造原価っていったいどれくらいなんでしょうか。工業製品だから製造数が少なければ単価は俄然はねあがるのが道理ですが、それにしてもなんの変哲もない腕時計一つが100万円以上もするのは、冷静に考えるとすこし異常な気がします。もちろん精度や仕上げの程度や耐久性は数万円くらいの腕時計にくらべればそれなりに優れているのでしょうが、それほど極端な差があるとは思えません。この時計はデザイン的にははっきりいってなんの面白みも個性もありません。

言うまでもなくこういった類いの小物は趣味道楽の範疇なので、何にいくらお金をかけようが人それぞれで全くかまわないのですが、性能的にもデザイン的にもとくにどうということのない陳腐な腕時計を、ただそのブランドおよび値段だけで自慢するような人は私はちょっと敬遠したいです。おそらく一事が万事でしょうから。

 

ピダハン

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たいへんに刺激的な本です。言語人類学の権威であるダニエル-L-エヴェレット著『ピダハン 「言語本能」超える文化と世界観』みすず書房刊・屋代道子訳・2012年・3400円。

ピダハンはブラジルの奥地に暮らす少数民族で、その人数400〜500人にすぎません。そこで使われているピダハン語という固有の言語は非常に特異なもので、チョムスキー以来の言語学の基本概念=パラダイムを根底からくつがえすようなものです。ピダハン語は彼らの文化・生活と分ちがたく結びついており、外部から何百年もの間ほとんど影響を受けることなく連綿と続いてきたといいます。

ピダハンの文化が西欧の文化などと比してどれくらいユニークかというと、以下はほんの一例になりますが、まず神という概念がありません。当然ほぼどんな民族にもある創世神話などは存在しません。おとぎ話すらありません。あの世という思考がないので、自分たちの死に対しても、もちろん嘆き悲しみこそすれ、どろどろといつまでも引きずるようなことはなく、私たちからみると非情とも感じるほどドライです。葬式もなければ墓地もなく、ほとんど「衛生的処理」のように手短に集落の近くに穴を掘って遺体を埋めるだけ。

右/左という相対的な概念もなく、空間と位置関係は自分たちの生存に欠かせない川(アマゾンの支流の支流の支流であるマイシ川)を基軸とする絶対的座標で把握されます。これなどはよく登山をする私にはたいへんよくうなずけるものです。地形図とコンパスを元に、今自分はこの地図のなかの(空間のなかの)どのあたりにいるかを常に把握していないとたちまち道に迷ってしまいます。自分から見ての、ある山なり川なりが右に見えるとか左に見えるとか言ってもそれだけでは意味がないわけです。もっとも彼らには地図やコンパスもなく、自分の頭と感覚だけで広範囲(数キロ〜数十キロ)における日々の狩猟採取を行っているわけですから、空間把握の能力ははるかに優れていることになります。

また数の抽象的概念にも乏しく、言葉的には「ひとつ」「ふたつ」「いっぱい」くらい。しかしほぼ完全な自給自足生活でしかも貯蔵もせず、したがって他者と商的な取引をする必要がないのであればそれでじゅうぶん用は足りるということのようです。時間的にも昼と夜の区別はあまりなく、狩猟採取も必要に応じて夜間でも出かけるし、猛獣などからの襲撃を避ける意味もありまとまった睡眠をとることもない。色を表す言葉もごく少ないが、それは色覚に乏しいということではもちろんなく、動植物や空や川や大地など現物そのもので詳細に具現的に把握しているので、赤とか青とかいう抽象的概念は不要。

ピダハンの社会(村)には首長はいないし、血縁関係の認識もごくあっさりしたもので、従兄弟という語彙もない。年長者だから大人だからという一種の権威意識もなく、幼児以外は基本的に子供も大人と同じ扱いである。上下関係や権威がほとんどなくて規律が保たれるのかと心配されようが、互いの存在を危うくするような行為に対しては村八分にする、または精霊の声を聞くことで規律が保たれる。

「こんにちは」や「さようなら」、「ありがとう」や「すみません」といった交感的語彙はなく、それらは言葉ではなく行動で示されるそうですから、丁重かつ頻繁なあいさつが苦手な私などは気楽そうですが、でもそういう形式を整えることよりも行動で感謝や謝罪を示すべきというほうが、かえって荷が重いかもしれませんね。

ピダハンの人々にとっては世界は「目にみえる範囲」だけであり、自分自身か自分がよく知る者が「直接に」体験したことしか信じない。未来も遠い過去もなく基本的に「今」しかありません。自分が体験しえないことは存在しないということだからです。しかしながら、われわれの世界観とは異なり睡眠時の夢や森でしばしば出会う精霊はピダハンには「現実」として存在します。なぜなら自分が「実際に」それを「見た」からです。

この本の著者は、ピダハンの地に赴いたそもそもの動機は福音派のキリスト教の伝道のためだったのですが(聖書を翻訳する。それには現地の言葉を習熟しなければ)、キリストの話をすると「会ったことも見たこともない者をおまえは信ずるのか」と一笑に付されてしまいます。結局数十年後には著者は信仰を捨て、無神論者となってしまいます。

読めば読むほど、日本を含む大半の国の言語や文化とは大違いなことに驚くばかりです。自明のことと思っていたことがことごとくひっくり返される思いがします。著者の研究論文は(本書は一般向けの書)チョムスキー以来のいわば現代言語学の主流に巨大な論争を巻き起こしたようですが、著者は人類に本能的に内在する普遍言語などは存在せず、言語はその自然環境や文化のありようと不可分に密接に結び付いている。すなわち環境・文化が違えば言語も異なると主張します。

残念なことに、エヴェレットが再度ピダハンの村を訪れ、研究調査を深めようとしたところ、彼の言説に批判的な言語学者から「人種差別的な研究をしている」との通報がブラジル当局になされたためにできなくなった。また最近では村に電気が引かれ学校が開かれ数の概念も教えられているが、村人は喜んでいるとかの話もあるようですが、その真偽は定かではありません。まあ一般論的にいうならば同業者の嫉妬ほどこわいものはない、という感じもしますね。