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五百円札

先日、地元の神社の春祭で神輿をくり出したのですが、そのときのご祝儀のお金を整理していたら、見なれない紙幣が一枚出てきました。なんと五百円紙幣です。こんなお札があったことをまったく忘れていました。で、手持ちの五百円硬貨と交換してもらいました。

現行の千円紙幣に比べ横幅は10mm長く、縦は逆に4mm短いのですが、色合いはどちらも紺色を基調としているので、うっかりすると間違えてしまいそうです。むろん今回の五百円札は折り目もついていないきれいな紙幣なので、記念かなにかにとっておいたものをご祝儀にちょうどおあつらえ向きだということで誰かが包んだものでしょう。肖像は岩倉具視ですが、すでに多くの人にとって「いったいそれは誰?」という存在かと思います。

私も名前こそすぐに思い出しましたが、どんな人だったのかはすっかり忘れてしまいました。それですこし調べてみると、1825年に生まれ1883年に没ですから、幕末から明治初期に活躍した人ですね。公家出身で、明治政府では外務卿(外務省の長官)および太政大臣の補佐である右大臣を兼務し、明治維新の十傑の一人とされています。岩倉使節団などで欧米に足を運ぶなどして、大日本帝国憲法の制定に尽力したようです。

この五百円紙幣は1951年(昭和26年)に登場し1985年(昭和57年)まで製造されました。ちなみに裏面(?)は富士山、透かしは桜の花です。

※紙幣偽造などとケチをつけられてはかなわないので、透明なカバーをかけて赤いマジックインキでそのカバーに「みほん」という文字と斜線を描いて撮影しました。もっとも、いまどき500円だの1000円だのでは仮に偽造してもぜんぜん割に合わないと思いますが。

 

 

 

丁岳山頂からの展望

4月28日の「山歩きの雑記帳 13号」の記事中に、私が撮影した丁岳山頂からの写真を別途掲載しましたが、読者からのリクエストに応えて他の写真もいくつかご紹介します。

いずれも同じ2004年5月2日に、秋田県側からの登山道をたどって丁岳の頂上まで一人で登ったときのものです。1146mの頂上から、もしくはほんのすこしだけ東よりに行ったところからの撮影です。標高800mあたりから上はまだほとんど雪面だったので、観音岩の手前からは夏道づたいではなく地形図で判断してそのまま直登して頂上に達しました。

中景左の三角が観音森、右寄りの三角が庄屋森、それよりやや低く右側の黒い鋭角が茅森。これらには丁岳山頂から周回する登山道が通じているが、楽なコースではない。

中景中央に萱森、その右肩ごしに紺色に甑山の双耳峰(左が女甑、右が男甑)。甑岳にはわりあいしっかりした登山道がある。

中景の左端が甑山の男甑、中央のふたつ並んだ紺色の二等辺三角が加無山(左が男加無、右が女加無)。加無山には昔一回だけ八敷代から登ったことがある。いちばん遠くにかすんでいるのは神室山地。

中央が雁唐山、その右の三角が有沢山。どちらも登山道はないと思う。

ところどころに雪が残る弁慶山〜八森の馬蹄形障壁。弁慶山には二度、八森には一度注連石から登ったことがある。

左端の黒いところがキレットのある垂壁、中央三角の岩山が影丁岳、その右後方の緑がかった三角が石蓋狩山。遠景の雪をかぶった連なりは二ツ山〜納屋森あたりか。

ほとんどまだ雪の鳥海山。東から眺めると富士山のようだ。

中景右側が水無大森。遠くに日本海がかすんで見える。

4/29の胴腹ノ滝

 

 

4月29日午前9時前の胴腹ノ滝ですが、水量が目にみえて増えています。昨年の例からいえばピークにはまだ間がすこしあるかと思いますが、1週間から10日くらいの間隔で訪問するたびに一目見てはっきりと分かるほどに水量が増えているというのはすごいことです。河川の水量ではなく100%湧水でそれですからね。滝のまわりの緑もずいぶん濃くなってきました。

水温は4月3日以来、11日、20日とずっと変わらずで、右が8.9℃、左が8.8℃です。気温は15.7℃でした。朝わりあい早い時刻でしたが、ゴールデンウィークに入っておりさらに好天続きのためか県外ナンバーの車も含め来訪者がいつもよりは多かったです。もっと遅い時間だとけっこう混雑したかもしれません。

 

天然杉

酒田市の方から材料持ち込みでの座卓の製作依頼がありました。左の写真がその材料ですが、知り合いからいただいた天然杉だそうです。検分したところ幅135cm奥行85cm高さ33cmの座卓が製作できそうだということで、正式な図面と見積もりを提示しました。

材料持ち込みでのご注文も原則的にお受けしていますが、こうしたケースでいちばん心配するのが材料の状態です。お客さんのほうではもちろんそれなりの材料だと思うからこそこれを活かしたい、そうすれば材料代も浮くしと判断されるのですが、実際には必ずしもそうではないことがあります。材料がまだ乾いていない、割れている、腐れや虫食いや変色がある、異物をかんでいる、反り捩じれがあって所定の寸法に足りないといったことです。またそうした物理的な欠陥がないとしても、客観的にみてほんとうに優良な材料ということはめったにありません。

私たち木工人は仕事柄、それこそ極上の材料や非常に貴重な材料をいやというほど見ています。テーブル・座卓の甲板(天板)一枚が数十万〜数百万などはざらにあります。ときに1千万をこえるものも。そうした希少な材料に比べれば、お客さんが保管されている材料は、当然ではあるのですがほとんどの場合、たいへん失礼ながらあえて申し上げますが中級品以下です。もし材料支給でなければ製作者としては正直なところあまり使いたくないと思うようなレベルの材料であることも珍しくありません。リスクが大きすぎるからです。

むろんその材料に特別な思い入れや経緯がある、お金の損得に簡単に換算できるようなものではないという場合もありますね。だからできる限りはご希望にそうようにしたいと思っています。ただ、材料の程度のいかんにかかわらず加工の手間はそう大きくは変わりませんので、材料が並以下だと結果としてかえって割高なものに感じられてしまうかもしれません。材料費に対し「加工賃+諸経費」が倍くらいになるのがふつうですから、材料支給でもそれほど安くなるわけではありません。そこはぜひご理解いただきたいと思います。

 

『山歩きの雑記帳』13号

山形県酒田市の佐藤要さん(佐藤要写真事務所 tel 0234−23−3533)が発行しているA5判36頁ほどの冊子ですが、タイトルおよび「みちのくの山懐から」という副題が示すように東北地方の登山やハイキングや山岳にまつわる話題を載せた雑誌です。季刊くらいの間隔で出されているのでしょうか、すでに13号を数えています。定価は500円。

小誌ながら中身はたいへん濃いです。佐藤要さん自身が登山家であり写真家ですが、今回執筆の8名の方もそれぞれ熱烈な山岳愛好家。今号の記事で私がとくに惹かれたのは坂本俊亮「安楽城の怪峰・難峰」です。

山形県北部の現在の真室川町は1956年に安楽城(あらき)と及位(のぞき)のふたつの村が合併してできた町ですが、旧安楽城村は北に丁(ひのと)山地、東に弁慶山地をかかえています。両山地ともに標高は1000m前後ながら随所に険しい岩稜岩壁と深い谷を成し、登路はごくわずかしかなく山小屋は皆無です。近隣の鳥海山などに比べれば来訪者も雲泥の差。その存在すらよほど山に詳しい人でなければ知られていませんし、まして実際に登ったことのある人はかなり限られているでしょう。私自身も丁山地は主峰の丁岳(1146)、加無山(997)しか登ったことがありませんし、弁慶山地東面では弁慶山(887)と八森(799)くらいです。西面は二ツ山(937)・納屋森(920)・薬師森(668)・経ケ蔵山(474)・猪ノ鼻岳(約810)・胎蔵山(729)といったところ。

ただでさえ登る人の少ない丁山地で、しかも今回の号に載っていたのは雁唐山(1045)と影丁岳(987)と石蓋狩山(772)ですから、これはなめるように読むしかありません。影丁岳なる名前がいつごろ付いたのか知りませんが、丁岳への唯一のまともな登山道ともいえる秋田県側からの登路をたどって丁岳に登頂し、やれやれと思いつつ南西方面(山形県側)を眺めわたすと、明神沢の険谷の向こうに見える三角錐が影丁岳です。みごとな岩峰ですね。

じつは私もずっと昔、高校山岳部の頃ですが、明神沢を遡行して丁岳の直下まで至りながらも日没で時間切れ。増水の心配もあったので影丁岳(当時は無名峰)側の斜面途中のわずかな平坦地でビバークしたことがあります。翌日はスラブをなんとか登攀して稜線に出、そのまま丁岳に登頂するつもりだったのですが、途中のキレットに行く手を阻まれて断念。結局ふたたび明神沢に戻り対岸の急斜面を登行して丁岳頂上にたどりついた経験があります。当初の計画では県境稜線を東に縦走して甑山(981)あたりまで行くはずだったのですが、まったく無理でしたね。下の写真は2004年5月2日に丁岳頂上から私が撮影したものですが、これを見るたびに当時の惨憺たる山行を思い出します。写真中央の黒い垂壁が突破できなかったキレットの箇所です。右側の三角峰が影丁岳で、左側奥には弁慶山〜八森の馬蹄形障壁が青白くのぞいています。

 

十数年前に真室川町によって高坂ダムのほうから石蓋狩山の懐経由で尾根伝いに丁岳に至る登山道が開かれたそうですが、依然として上級者向きの難コースのようです。往復で十時間ほどかかり、ザイル等の携行も必須だそう。一度行ってみたい気はしますが、一人ではちょっと無理かな。こんなコースではもしなにかアクシデントがあっても救助もままなりません。ほかにも丁山地では甑山や萱森・有沢山など興味深い山がたくさんあるのですが、はたしてこれから実際に登ることができるかどうか。

今号では三浦孝子「早春の弁慶山」、多羽田啓子「佐渡 アオネバ渓谷 花の谷」も良かったです。

 

烏が三羽

鳥海山の南西斜面にちょうどいまおもしろい雪形(ゆきがた)が出ています。西鳥海とも呼ばれる笙ケ岳(1峰は標高1635m)の下の雪面に右から、腰を曲げて種を撒いている爺さん(または婆さん)、その左足元にさっそく種をついばみにやってきたカラス、やや離れて木の枝に止まっていま飛び立とうと羽を上げているカラス、さらに左に騒ぎを聞きつけて飛んできている途中のカラスです。

笙ケ岳直下の種まき爺さん・婆さんはこの時期、毎年のように新聞やテレビなどに取り上げられますが、同時にカラスが3羽出現していることはあまり知られていません。「権兵衛が種撒きゃ、烏がつつく〜」とよく唄われますが、まさしくその歌そのままのじつにみごとな雪形です。季節的にもちょうどぴったりの内容ですし。

雪形は真っ白だった山の雪が徐々に溶け、それにつれてできる残雪の形、または地面の形を人や動物などに見立てたものです。前者がいわばポジ、後者がネガの雪形なわけですが、件の種蒔き爺さんや烏はネガの雪形ですね。ポジの雪形も他にあることはあるのですが、ネガに比べるとやはり分かりにくいです。また雪形はしょせん主観的な見立てなので、人によってはもっとたくさんの雪形を指摘することがありますが、ちょっと無理な連想も多く、一般の賛同を得ることは難しいと思います。それにいつも天気がよくて山がきれいに見えるとは限りませんので、最低でも1〜2週間はその見立ての形を維持できるような雪形でないとだめでしょう。

下の写真にもじつは種まき爺さんと対になる婆さんや(その場合は左向きが婆さんで右向きが爺さん)、鍋森の下に飼い葉桶に首を突っ込む馬も見えているのですが、上のような理由でわかりづらいかもしれません。おそろしいのは雪形は一度それとはっきり認識してしまうと、そのあとは嫌でもその形にしか見えなくなってしまうことです。

 

ショウジョウバカマ

 

 

山あいの渓流近くや林野の湿った場所で、雪が消えるそばからまず咲き始めるのがショウジョウバカマです。ショウジョウバカマ(猩々袴)はユリ科ショウジョウバカマ属の多年草で(Heloniopsis  orientalis)、和名は花を猩々の赤い顔に、葉を袴に見立てたものといいます。または能の猩々の衣装によるとの説もあるようです。

写真は鳥海山南西麓標高230mあたりの湧水の流れのそばに咲いていたものですが、沢筋の直近で比較的明るい開けたところに点々と生えており、ところどころ小群落を成していました。雪に圧迫されたロゼット状の根生葉はだいぶ痛んでいますが、その中心から短くかかげた花茎の先に淡紅色または紅紫色の花を数個横向きに付けています。まれに白色の花もあるはずですが、今回はみかけませんでした。

同所に咲いていたのはキクザキイチゲが少々くらいで、他の草花はまだこれからのようです。今冬はわりあい雪が多かったので、スプリングエフェメラル=春の妖精たちも出番が遅れているのかもしれません。

 

チヂレウラジロゲジゲジゴケ

 

菌類と藻類が共生する植物である地位類の一種で、たぶんチヂレウラジロゲジゲジゴケです。

なんとも奇妙な名前ですが「名は体を表す」の典型例で、下の写真で分かるように端のほうは自己相似性の形=フラクタルのようなあんばいに縮れているし、裏側は表側よりさらに色が白い。また子器は浅いお椀のような形で盤が褐色。その縁は鋸歯状に裂けている(肉眼ではちょっと分かりにくい)あたりがゲジゲジを連想させるということかもしれないですね。右上の大きい方で直径10cmくらいです。

花が咲く一般的な草木と比べると、苔や菌類やこの地位類はたいていはひどく地味で、研究者もずっと少ないです。ムカデゴケの仲間だけでも国内に40種以上あるそうですが、その見分けは非常に難しいでしょう。高等植物・顕花植物は愛好者が多く調べ尽くされている感がありますが、地位類などはぜんぜんそうではないので、すこし勉強すれば「もの知りですね!」くらいのことはすぐ言われるようになるかもしれません。

 

4/11&20の胴腹ノ滝

3枚の写真はいずれも4月20日午前12時すこし前のものです。前回掲載した4月3日に対し11日→20日と水量がどんどん増えています。激しく落ちる水の音といい、その水の豊富さといい、この時期にはじめて胴腹ノ滝に接する人はまさに「おお滝だ!」と誰しも驚くのではないでしょうか。落差は3.5〜4mといったところです。湧水温は左右のそれぞれの滝壺のところで計っているのですが、水量が多く水しぶきでびしょぬれになるので雨具を着用して計測しています。

湧水の温度は4月11日・20日ともに右が8.9℃、左が8.8℃。これは4月3日と変わりません。11日はまだ気温のほうが低かったので水が温かく感じましたが、20日は気温14.3℃だったので反対に水が冷たいと思いました。昨年の記録をみると11月29日以降は気温のほうが水温より低くなっていますので、約5ヶ月ぶりに「冷たい湧水」というイメージが名実ともに復活したというわけです。逆に言えば約5ヶ月間はじつは「温かな湧水」だったのですね。

 

 

 

夕焼けの鳥海山

 

今日の夕方5時50分頃の鳥海山です。日没間近かで、雪をかぶった鳥海山が赤く染まっています。私は20代の10年間ほどは県外で暮らしていましたが、それ以外はずっと鳥海山の麓で暮らしています。つまり何十年もの間、数えきれないほど鳥海山を眺めてきたわけですが、いまだにその美しさと神々しさにつよく打たれることがあります。今日もそんな日でした。