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青猫句会 2016.11.23

 

青猫句会11月ぶんです。本来は第三水曜日の16日だったのですが、メンバーの急な事情で1週間延期しました。酒田駅にほど近い「アングラーズ・カフェ」というお店を借り切って、午後6:30〜9:00に開催。今回の参加者は相蘇清太郎・今井富世・大江進・大場昭子・齋藤豊司・佐藤歌音・佐藤や志夫(やは弓+爾)・南悠一、投句のみは土田貴文の各氏で、合わせて9名でした。

句会は其の一と其の二に分けて行われます。参加者は事前に2句を無記名投句、おおむね当季の季語を入れるということになっています。
では其の一から。

1 冬の野を当てなく漂う捨聖
2 日輪の恵みまるごと柿熟るる
2 かざぐるま止まずガリヴァー沖渡る
1 鐘の音の聞く耳持たぬ冬菊よ
1 団栗の独楽と聞き入る静けさや
3 どの木にも風の行方や野分晴
3 小春日やまだ温き壷腿にあり
3 黄落や捨てたきものの捨てどころ
0 空高し実の無き柚子を白くして

得点はばらけました。最高点3点句は3句あります。まず<どの木にも風の行方や野分晴>ですが、強い風が吹き荒れた後の穏やかな晴天。枝葉が風によって折れたり葉が散ったり、あるいは昨今だとゴミがひっかかっていたりするかもしれません。烈風による被害もあるでしょうが、一方では人智を越えた自然を前に一種の開放感もあります。作者は私です。

次の3点句<小春日やまだ温き壷腿にあり>ですが、壷が火葬後の骨を入れる骨壷であることが想像できます。しかし普通は「膝」とするところをわざわざ「腿」とする必然性はとくに感じられませんし、腿にするとどうも妙な意味合いがたちあがってくるような気がして、私は取れませんでした。「小春日」と「温き」の重なりもどうでしょうか? 作者は佐藤や志夫さん。

三つ目の3点句は<黄落や捨てたきものの捨てどころ>です。長い月日の間に身辺に厚くまとってしまったものを、ひとつひとつ外して捨ててしまいたいと思うことがあります。もちろん”断捨離”のように物を捨てる整理するということではありません。意味の取りようによってはかなり深刻な場面になりそうなところを、紅葉ではなく黄葉の明るい落ち葉であることによって救われているようです。私も取りました。作者は大場昭子さんです。

2点句はふたつあります。<日輪の恵みまるごと柿熟るる>は、柿と太陽・お日様との取り合わせはいかにも常識的であり常套的すぎます。別のもっとなにか意外なものによって柿が熟れるのだ、というくらいの独自な発想が必要。作者は佐藤歌音さん。

<かざぐるま止まずガリヴァー沖渡る>は面白い句です。私も取りました。小さくてかわいらしいものと巨人との対比があり、どういう状況なのかよくわからないながらも惹かれるものがあります。ところが作者の南悠一さんによると「かざぐるま」は春の季語ともなっている玩具のかざぐるまのことではなく、海辺に立ち並ぶ風力発電用の巨大な風車のことだそうです。う〜ん、あれをかざぐるまと呼ぶのはちょっと無理なように思いますし、それであれば誤解をまねかないように「風車」としたほうがいいのでは(ただそれだと青猫句会のルールである当季の季語を入れる、に反することになりますが)。

1点句ならびに無得点句については、キンタロー飴、あるいは??ということで、すみませんが省略します。

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其の二にいきます。

2 凍港へおるやおらぬや晩の風
1 愚痴ありき呟きありきなどか秋
2 距てられ霧の中から霧を見る
1 拾ひたる肘の金具や草紅葉
3 冷ややかに甌穴の眼の二三十
1 山ひとつ花束にして山装ふ
3 諄々と血はしづもれて柘榴かな
2 一風に衣ぬぎたる老紅葉
1 夜の秋葉落つる如く風少し

やはり得点はばらけました。最高点の句<冷ややかに甌穴の眼の二三十>は、まずもって「甌穴」のその読みも意味も不明という人が多かったです。海辺や河川の岩の上にあいた丸穴のことで、かめの穴のようだということで甌穴。しかし今は英語でポットホールと説明するほうが一般的なようです。そういう自然にできた穴がいっぱいあってまるで眼のようだというのですから、ちょっと不気味かもしれません。「冷ややか」は秋の季語ですから、水が澄んでいる、空気が透明感があるといったことも背景にあります。作者は私です。

もう一つの3点句<諄々と血はしづもれて柘榴かな>は、各人のザクロに対するイメージによって評がかなり分かれました。鬼子母神伝説にあるような陰惨な流血を連想する人もいれば、私のようにザクロそのものの透明感のある赤い美しい種子を想い浮かべる人も。鎮もれるですから後者でしょうね。私も取りました。作者は南悠一さん。

次点2点句は3句あります。<凍港へおるやおらぬや晩の風>は、なぜ「夜」ではなく「晩」なのか、在・不在は人間なのか風なのか……。私には読み取ることができませんでした。作者は土田貴文さん。今回は投句のみで欠席だったため、作者の弁をきくことはできませんでした。其の一でも同様だったのですが、他者には伝わりにくい表現のしかたで、一考を要すると感じています。

<距てられ霧の中から霧を見る>は暗中模索という様なのでしょうか。霧の中で霧しか見えない……。心情的にはわかるような気がしますが、漠然としており観念的で、まだ詩歌にまで昇華されていないと思います。作者は大場昭子さん。<一風に衣ぬぎたる老紅葉>は、色あせた紅葉が一陣の風でいっきょに散ってしまったということですが、まあそのままですね。作者は今井富世さん。

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今さらいうまでもないことだとは思いますが、自分が感じたこと思ったことを俳句というかたちにして句会で披露するということは、他者にもその思いを伝えたい、わかってほしいということでしょう。誰もわからなくともいいのだということであれば公開する必要はありません。難しいことではありますが、自分の作品を第三者の眼と立場に立って、その表現された十七音だけを手がかりにしてどれだけ読み取れるかという観点でよくよく推敲するべきかと思います。

それから季語ですが、歳時記の記載を絶対視するわけではないものの、あまりにもそれから外れた使用方だと、やはり他者には句意が伝わりません。一句ごとにいちいち歳時記で季語の確認をしてほしいと思います。