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シテ5月句会 2014.05.14

 

短詩形同人誌『シテ』の、句会としては新体制となってから2回目の句会です。奇数月の第3水曜日の開催が原則ですが、今回は酒田祭りと重なることから第2水曜日の14日に変更しました(次回は7月16日です)。今回の出席者はシテ同人では相蘇清太郎・阿蘇豊・今井富世・江口暢子・大江進・早川孝子・南悠一の7人。その他では大場昭子・加藤明子・村上千香・渡部きよ子の4人で、合わせて11名。ただし村上千香は投句のみの参加なので、当日参集したのは10人です(敬称略)。

事前に2句ずつ投句しておき、無記名でそれをランダムに紙2枚に清記し、みなで合評してから作者名を明かすのはいつも通りですが、第一幕と第二幕に分けて行いました。所用時間は2時間半です。では第一幕から、句と得点(一人各2句選びます)です。

0  座禅草風が供えし桜一輪
3  山桜束に抱えて男来る
4  桜咲く今年に今年のことば湧く
0  春の海防潮堤の高きかな
2  夜桜や護国神社の玉砂利と
1  きめ酒に口一文字遅桜
3  われはわれはと海へ雪解かな
1  春雷のいま鳴りやみてひかり坂
0  悩む春ま白き鳥の長い首
1  琴柱爪のつめたし黄水仙
3  花吹雪オオイヌノフグリを跨ぎけり

最高点は3句目の<桜咲く〜>です。私自身は他の草花とくらべて桜に特別な思いはありませんが、世間的には、また俳句的には「花=桜」というように、年ごとにひとしおの感慨をいだく人が多いのでしょう。その意味ではとてもよくわかる句です。ただ芭蕉に<さまざまの事おもひ出す桜かな>という句があるので、それを想起してしまいました。また「今年に今年の」と重ねられると雰囲気的には春というよりは新年の気分が漂ってしまうので、その点は損してしまうかもしれません。作者は阿蘇豊さん。

次点3点句は3句ありました。2句目の<山桜〜>ですが、おそらくは自然の山桜だからこそ下七の「男来る」とうまく響き合うと思います。園芸的に植栽されたソメイヨシノ等ではだめでしょう。山桜は葉が出るのといっしょに開花しますし、色合いも薄く控えめな感じがします。男もちょっと無骨な感じかな。作者は村上千香さん。/私もこの句は取りましたが、いささか気になるのは中七「束に抱えて」です。束にするほどたくさん枝を切ってしまったのか、それはいかんよねと思いました。勝手なことを書いてしまいますが、私なら「一枝(いっし)たずさえ」とか「大枝かかえて」「落枝(らくし)束ねて」にしたいです。後者は雪折した枝を片付けている桜守の気分で。

次の3点句<われはわれはと〜>はじつは私の句です。いま最上川とか赤川・日向川・月光川などは山の雪解け水を集めて水量が非常に多く、青白く濁っています。それらの水はほどなく日本海に注ぐわけですが、その雄大な景が目に浮かび、また春到来のうきうきした喜びも感じるという意見がありました。五七五ではなく七三五の破調ですが、それも息急くように流れ下る水のようすをうまく表すことができたでしょうか。

次の3点句は11句目の<花吹雪〜>です。これは私も取ったのですが、桜吹雪と足元のオオイヌノフグリとの取り合わせが絶妙です。大量の落花がオオイヌノフグリの咲いているところを超えていったと解釈する人もいましたが、私はそれもあるけれども、むしろ青い美しいオオイヌノフグリの群落を踏みつぶさないように丁寧に跨いでいった男(とはかぎりませんが)の様子を思い浮かべました。心根がやさしいですよね。作者は相蘇清太郎さん。

2点句の5句目<夜桜や〜>は護国神社+玉砂利で、材料がそろいすぎ。玉砂利だけでそこが特別な場所であることはわかるので、中七を工夫したいです。作者は渡部きよ子さん。8句目の<春雷の〜>は下五の「ひかり坂」がひっかかります。雷光は音よりも先に来るし、固有名詞のように最後に造語の地名を付けるのもどうですかね。作者は南悠一さん。10句目の<琴柱〜>は「ことじ」と読むのだそうですが、これは私は知らなくて、どこで切れるのかわかりませんでした。水仙花(通常は白)ではなく黄水仙としたのはいいと思います。作者は大場昭子さんです。

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さて小休止のあとは第二幕です。

0  枝垂桜水面揺らして黄昏るる
0  春の窓香箱組んで思案猫
4  啓蟄の光に満ちて地下世界
2  夏立ちて一升かわす決まり酒
1  首折れて雉鳩ぬくし春遅く
1  旅人の一期一会に花散りて
2  小夜更けて散り敷く花や靴の道
1  温雨にうれしうれしと山葵咲く
1  この花のなまえはええーと、かえる殿
2  燕仮設の窓辺をひらりと
6  カルピスを飲みほしている夏は来ぬ

最高点は6点が入った最後の句<カルピスの〜>です。夏だ、カルピスだ、というわけでたいへんよくわかる句です。ただあまりにも明快・直球で、広告のコピーのようだという意見も。かといってカルピスにかわるなにか適切な飲み物がありますかね。さて考えてみましょう。作者は南悠一さん。

次点4点句は3句目<啓蟄の〜>です。春になって地面の下で多くの生き物が動き出している明るい感じがよく伝わるという声が多数。この句は私の句ですが、あらためてそう言われて自分で読み返してみると、逆にちょっとわかりにくかったかなと思いました。私のねらいとしては「啓蟄の」でいったん切れて、地下の世界が実際に物理的にも無数の穴が開いて外光が差し込んで光にあふれている様子を言いたかったのです。ところが「啓蟄が光に満ちているのは当たり前では」という批評があったことから、ああこれはまずいなと。ではどうするかですが、上五で切れることを明確にするには「啓蟄や」でしょうかね。でも語調はこの句にはマッチしませんね。

2点句は3句ありました。4句目の<夏立ちて〜>は、まあそうですねえとだけ感じるのは、私が酒をほとんどたしなむことがないからでしょうか。作者は加藤明子さん。次は7句目<小夜更けて〜>は落花に覆われた地面がはやくも人の往来で踏みしめられてしまい道ができてしまっている状態ですが、下五「靴の道」がどうも座りがわるいですね。作者は相蘇清太郎さん。

次の10句目<燕〜>は「燕」のすぐ後に「仮設の」と続くので、「つばくらめ」としたほうが上五の切れがはっきりして読みやすいかもしれません。この仮設は3.11後の震災の仮設住宅とのことですが、いまだに復興のままならぬ地にも変わらず燕が訪れることにさまざまな感慨が浮かんだようです。ただ下句が「ひらりと」は私としてはゆるすぎると思うので、「過ぎゆけり」くらいにしたほうが非情さや無常感がはっきりしていいかなと思いました。作者は江口暢子さん。

私は選句2句のうちのひとつに5句目の<首折れて〜>を取りました。判然としないところがありつつも妙に魅かれるものがあったからです。「首折れて」をそのようなかっこうで地面の虫等をついばんでるのかとも受け取ったのですが、ほんとうは大きなガラス窓に衝突して死んでしまった「バードストライク」の鳥のことだそうです。死骸がまだ温かったわけですね。題材はユニークなのですが、句としてはいろいろと推敲の余地があります。作者は村上千香さん。

・・・・・

俳句に対する指向は人それぞれでしょうし、どれが良いとか悪い、正しい正しくないということはないと考えます。一種の教養とかおけいこごととして一定の作法を身につければ充分とする考えもあれば、いやどうせやるなら文学としての高みを目指してとことん邁進するのだとする考えもあるでしょう。私自身は明確に後者です。したがって今回のような句会も、鍛錬の場であると私は受け止めています。

俳句は基本五七五と極端に短い詩形であるために、作者の意図や思惑や狙いを過不足なく表現することは非常に難しいです。一方、読者は表現された最終形の五七五だけを手がかりにして読み解くしかないので、そこに作者の思いと大きな齟齬をきたすことがしばしばあります。しかしそれは俳句の欠点なのではなく、俳句の豊穣です。いったん作者の手を離れた句は、作者の句であると同時に読者の句ともなります。いわば作者の拘束・呪縛、あるいは保護から解き放たれてその句は自由にはばたき、あるいは赤裸にさらされてしまいます。

読者はそのとき、作者の思いもよらなかった姿をその句に見いだすかもしれません。しかし作者が自分の思いとだいぶん、あるいはまったく異なった姿や顔となって返ってきた句を、いやそれは自分の句じゃないと頑に拒否してしまうなら恩寵は霧散してしまうでしょう。句の作者があくまでも自分の世界にこだわるのであれば(聞く耳をもたない、ともいいます)他者に自句を開示する必要はなく、まして句会に参加することは無意味です。時間の無駄ですし、ストレスの元にしかなりませんから。

俳句にはわが子をつきはなす勇気と潔さが必要です。俳句ならではの恩寵を得るためにも。

 

駒止用駒製作の治具

 

座卓や机やテーブルなどにおいて、脚部と甲板(一般には天板と呼ばれることが多いのですが正しくは甲板=こうはん、こうばん)を接合する方法はいろいろあります。吸付桟・ホゾ組・寄蟻・釘止・木ネジ止・駒止などですが、当工房では駒止(こまどめ)とする比率がわりあい高いです。表からは接合箇所が見えませんし、確実に強固に甲板と脚部を締結することができるからです。

駒は本来は小さな角状木片のことをいうのですが、これを介して甲板と脚部を接合する場合、いまでは木片ではなくL形の専用金具を用いることのほうが普通になっています。無垢の木材は繊維方向の縦と横とで収縮程度が大きく異なるため、それに対応した2種類の駒止金具を使いわけます。ただ私が知るかぎりでは市販の既製品では鉄製が多く、安価ですがサビの心配があります。

しかし当工房で駒止を行う場合は、そうした市販の金具ではなく自家製の木製の駒を使います。長さ8cmほどの角材ですが、片方の木口側にホゾを作ってあり、これを脚部の幕板のホゾ穴に差し込みます。駒と甲板とはステンレスの木ネジで2カ所ずつ止めるのですが、金属面が見えないように後から埋木します。写真上の右側にあるものがその駒です。加工の手間と取り付けの手間を考えると、市販の駒に比べてずっとコストは高くなりますが、見た目と耐久性は上がるでしょう。

写真上の左に写っている赤いレバーが付いている工具(トグルクランプ)と台は、その駒のホゾを加工するための治具です。ホゾ取りは昇降盤に付随するホゾ取りの丸ノコで行うのですが、長さ8cmしかない駒を直に手に持ってそれをするのはきわめて危険。したがって安全に確実に正確に駒のホゾ取りを行うための自家製の治具です。下の写真がこの治具を使って駒のホゾ取りをしているところです。

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巻き尺

 

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テープの幅が19mm、長さ5.5mの巻き尺(メジャー)です。工房で家具等の製作に使用している巻き尺は別にあるのですが、外出時に急にものの長さを計る必要が出ることもあるので、車あるいはバッグに常時携行用にひとつ新調しました。

これまで外で使っていた巻き尺は、長年の使用で目盛りの塗装が一部はげたりしてだいぶやつれてきたので今回新しくしたわけですが、選択のポイントはふたつあり、ひとつはテープの幅が狭くもなく広くもない大きさであること。つまり狭いとテープを長く引き出したときにすぐに途中でくったりと折れてしまいますし、広すぎるとテープの湾曲の度合いが大きすぎて物対目盛りの読み取りが難しくなります。それで頃合いをとって19mmにしました。

もうひとつのポイントは0点の精度です。どの巻き尺も0点にはL形の爪がついていますが、写真の巻き尺の場合は爪とテープの接合が4本ピンで止めてありしっかりしています。また巻き尺はよほど気をつけていてもうっかり落としてしまうことがあり、その際に爪を床にぶつけてしまうと爪が折れ曲がって0点の意味がなくなってしまいます。一度曲がってしまった爪はペンチなどで修正しようとしても完全に元通りになることはありません。家具の製作では1mm以下の精度が必要な場面も少なくないので、0点が狂った巻き尺は用をなしません。

その大事な0点を保護するために、この巻き尺では本体の口のところが爪の下向きの長さよりもすこし長く下方に突き出しています。こうすることで万一落下しても爪が直接打撃を受けにくいようにしているわけです。他の面でいくら立派で高級な巻き尺でも、この0点保護がしっかりと考慮されていない巻き尺は失格です。

余談にはなりますが、巻き尺のテープをゼンマイばねの巻き取りの勢いにまかせてバチンと勢いよくもどしてしまう人がときどきいますが、はっきり言ってまったく問題外、話になりません。計測器を大事にしない職人やデザイナーは素人以下です。

 

玄関のオオバクロモジ

 

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自宅の玄関に生けたオオバクロモジ。夜だったのでライトの光で壁に影が映っていますが、淡黄緑色の花と透けるように薄い若葉がとてもさわやかな雰囲気です。壁は石灰ベースの材料をコテ塗りしたもの、棚板はオニグルミの無垢板でオイルフィニッシュです。どちらも艶のないマットな肌合いなので、照明器具の光や外光がやわらかく反射します。

オオバクロモジは漢字で書くと「大葉黒文字」で、同じ仲間で太平洋側に生えているクロモジにくらべると葉が大きめであることに由来します。他にもオオヤマザクラであるとかオオミスミソウなど、日本海側の多雪地の植物は葉や花などがわりあい大きい傾向があり、これを「日本海要素」と呼んでいます。動物でも寒い所に棲むものは体が大きいことが少なくないので、それと同じようなものかもしれません。

 

※※ タイトルの入力が先日来うまくいかないので(ブログソフトのバグ?)、とうぶんの間「タイトルなし」とし、本文冒頭に見出しをすこし大きく付けることで代用とします。

 コーヒーブレーク15 「チェレンコフの光」

 

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ふらここの風のいなくて揺れており

「ふらここ」はぶらんこのこと。歳時記などには「中国から来た遊具」とあるが、樹からぶら下がった太めのツタという光景は山林ならどこでも珍しくはないし、それにつかまりぶらさがって揺らして遊ぼうという発想は自然と出てくるだろうから、すこし無理があると思う。ぶらんこはほかに「しゅうせん」(私のワープロソフトでは難しいほうのこれの漢字は出てこない)「秋千」「ふらんと」「半仙戯」などといろいろな呼称があるので、語感やらニュアンスの違いを使い分けると楽しい。/しかし最近できた公園や、古くなった遊具を新しいものに替えた公園などでは、ぶらんこがまったくないところもある。万一の事故の場合の、設置者・管理者の責任をあらかじめ回避しておこうということなのかもしれないが、なんともさびしいことである。

チェレンコフの光たずさえ春時雨

原発事故や放射能被曝などを気にしている方ならチェレンコフ光という言葉をよく耳にしたことがあるだろう。ミクロの世界の現象だが、荷電粒子が物質中を光速よりはやい速度で運動する場合に光を発する現象をチェレンコフ放射またはチェレンコフ効果といい、その光をチェレンコフ光という。その光は青白いそうで、原子炉の蓋を開けた場合などに目撃できるという。また使用済燃料を貯蔵するプールでもうっすらと見ることができ、3.11の原発事故などでは本来ありえない箇所でのその光の発現が報告されている。/春の雨は一般的にはおだやかで静謐なもの情緒豊かなものとされているが、いまやどんな雨にも程度のちがいはあれども放射性物質が含まれているだろうことを心配しなければならなくなった。「春雨に濡れてまいろう」などはとんでもないことだ。

地虫穴を出てまず地虫喰らいけり

高浜虚子の句に<蜘蛛に生れ網をかけねばならぬかな>という句があり、私はいたく気にいっている。虚子はなんだかんだいっても偉大な俳人で、すごいなあと唸ってしまう句はいろいろあるが、この蜘蛛の句もそのひとつだ。蜘蛛のことだから考えるまでもなく本能的に網を張り、獲物がそれにかかればすかさず走りよって糸でぐるぐるまきにして動きを止める。それからやおら体液を吸う。私は別にそうは感じないが、その姿といい生態といいひどく気味がわるいという人は少なくない。/しかしどんな生き物も行きていくために必須なさまざまな手段方法を駆使しているわけで、どれがいいとかわるいとかいうものではない。蜘蛛やカマキリやスズメバチなどの食餌を「残酷な」というのも人間の主観的恣意的なもので、蝶やカブトムシが蜜を吸うのとなんら変わるものではなかろう。植物食の昆虫だって植物を盛大に殺戮している。人間は草木ではないので、それを残酷とは感じないが。

 

小さな座卓

 

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これは東京都の方からご注文をいただき、つい先日納品した座卓です。材質はクルミで、大きさは幅640mm、奥行480mm、高さ320mmという小ぶりなもの。甲板は準無地板の2枚矧ぎ。幕板と脚の接合はいつものように小根付き通しホゾにクサビを打ち込み、ホゾ頭を1.5mm出しで仕上げています。また写真ではわかりにくいと思いますが、甲板(天板)の長辺がR9000、短辺がR7000のごく緩やかなカーブを描いています。

通常のよくある座卓だと幅1350〜1500mm、奥行800〜900mmくらいなので、甲板(天板)の面積でいえば1/3〜1/4ほどしかありません。しかしながらお客様のお言葉によれば「その小ささがいい」とのことでした。たしかに大きくてきちんとした作り、立派な座卓はありますが、小さくてもきっちりと作ってある座卓というのはあまり見かけませんね。小さいと材質や作りも粗末なのが多いです。

ただしそれにはそれなりの理由はあって、寸法がいくらか違っても製作の手間はたいして変わらないので、まともに作るとサイズの小さな家具はどうしても割高に感じられてしまうからです。上の座卓も、甲板の大きさが1/3〜1/4だからといって値段も通常の大きさの座卓の1/3〜1/4でできるかといったら決してそういうことはありません。したがってそのへんの事情をすんなりとご理解いただけるごく少数の方からの需要しか見込めないわけです。

自分で作っていながら自分で言うのもなんですが、こういった小さくて一人で簡単に移動もでき、置き場所や用途をあまり選ばない小さな座卓はなかなかいいものですね。意外に実用的でもあり、また愛らしい感じがします。

ご注文いただいたお客様から即日お礼のファックスをちょうだいしました。たいへんありがたく、うれしいです。⇒「素敵なテーブルを作っていただき、ありがとうございます。色合いもとても気に入りました。大切に使います。」

 

円能寺口からの経ケ蔵山

 

5月4日に、自分の子どもを含む小学生3人と経ケ蔵山に登りました。前回の4月27日は私ひとりで十二ノ滝コースからでしたが、今回は南西側の円能寺口から。前日に八森自然公園でキャンプをし、子どもたちは就寝時間を2時間もオーバーして夜更かししていたので睡眠不足ながらも、無事に頂上まで上り往路を下ってきました。連休とあって混雑というほどではないもののまずまずの人出です。

咲いていた花は前回とは異なり、ぜんぜん咲いていなかった花が開いていたり、あちこちにたくさん咲いていた花がもうほとんど終わっていたり。春の山地の花は刻々と変化するので、同じ山の同じコースであってもいろいろ楽しむことができます。

以下に先日5月3日のブログでは掲載できなかった花を中心に写真をアップします。

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クルマバソウ(アカネ科)

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コンロンソウ(アブラナ科)

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セントウソウ(セリ科)

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センボンヤリ(キク科)

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チゴユリ(ユリ科)

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ツクバネソウ(ユリ科)

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ヒトリシズカ(センリョウ科)

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オオタチツボスミレ(スミレ科)?

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ユキザサ(ユリ科)

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キバナイカリソウ(メギ科)

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セールスメール?

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数ヶ月前から、写真のようにブランド品の売り込みのメールが毎日30〜50件くらい来ます。主に衣類や靴・バッグ・時計といったところですが、いずれも私は一度もインターネットでそれらを購入したことはありませんし、ブログやツイッターなどでそれらの品物を具体的に実名をあげて言及したことも一度もありません。

それなのに急にこうしたメールが多くなったのは、おそらくですが当ブログのトップページに「お問合せ」というコーナーがあるからかもしれません。そのコーナーは当工房で作っている家具や木製小物の詳細を知りたいとか、なにかご注文されるお気持ちがあってそれの見積もり依頼などをしていただくためのものなのですが、それがブランド品のセールスに巧妙に利用されているのでしょう。もちろん本来の「お問合せ」とはまったく逆といっていい使われ方なわけですが、とくに実害というほどのこともないので放置しています。メールサーバーが自動的に迷惑メールに仕分けしてくれますし。

たぶん同じようにブログやホームページなどを比較的まめに発信されている方のところには同様のセールスメールが届いている可能性がありますが、結局こうした「下手な鉄炮も数打てば〜」式の売り込みは反発をかうだけであって、セールスには逆効果だと思うのですが。

 

※※ タイトルの入力が先日来うまくいかないので(ブログソフトのバグ?)、とうぶんの間「タイトルなし」とし、本文冒頭に見出しをすこし大きく付けることで代用とします。

コーヒーブレーク14 「屑篭」

 

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春眠の春夏秋冬めぐりきし

夢の中では時間の流れが現実世界とは大きく異なる。速度もちがえば順序もちがう。数日数年があっと言う間に過ぎ去ったり、過去と現在をかるがると往復したりする。現実には絶対にありえないような途方もないような夢をみることはまずなくなったが、時間だけは自由自在である。/前に読んだ『ピダハン』という本では、アマゾンに住む少数先住民族=ピダハンにとっては、夢は現実そのものであるという。なぜなら「実際に私がそれを見た」からである。夢を見たのはまぎれもなく実在する私やあなたなのであるから、それが経験したことは夢であれなんであれたしかに実在するのだと。なるほどそれもひとつの真理ではある。しかし彼らはけっして夢想家というわけではない。ピダハンには神話もおとぎ話もない。なぜならそこに登場する人物は誰ひとりとして眼前しないからである。今いないし、いたことを知っている者も今いない。したがってそんな根拠のないでたらめな話は信ずるわけにはいかない、と。ピダハンの文化を調査し記録した文化人類学者ダニエル-ベネットはキリスト教の伝導師でもあったのだが、彼がキリストの話をしたとたん大笑いされてしまう。

あたたかや刃物の面に指をあて

暖かさも寒さも相対的なものである。絶対的な気温としては言うまでもなく夏のほうが高いのだが、ああ暖かいと感ずるのはむしろ寒い冬がようやく終わり春が訪れたときだ。そのときの気温はたとえばせいぜい15℃でしかないかもしれず、夏ならば寒さを覚える温度であるにしても。それゆえ、「あたたか」または「ぬくし」は俳句では春の季語とされている。/刃物を砥石で研ぐときに、ちゃんと研げているかどうかを確かめるのにまず目で見て、それから刃先を指の腹でそっと触ってみる。仕上げの鉋やのみなどであれば刃先の厚みは数ミクロン以下だろうが、それくらいに研げているかどうかは指先の感触でたしかにわかる。

屑篭へ白い小鳥の飛びかいぬ

上記の「あたたか」や「ぬくし」が春の季語だというのは主観的な感覚としては納得できるのだが、小鳥が秋の季語とされているのはどうかなあ。正確には「小鳥来る」「鳥わたる」「鳥雲」「色鳥」など、小鳥類の生態動態を加味してはじめて秋の季語とされるのだが、なんとなく小鳥そのものが秋らしいと俳人には思われているふしがある。実際には渡り鳥にしても春・夏に渡ってくる鳥類はけっして珍しくはないのだが。/小鳥はまあグレーゾーンという気がするが、熊や狐・狸・イタチ・ムササビ・兎・鯨などの動物がみな冬の季語というのは、どう考えてもおかしい。それは猟師や漁師の活動時期、それに食い物としての分類(!)のようなもので、それら動物に対する視線が現代においてもそれでは、まったく偏屈したものでありかつアナクロニズム以外のものではなかろう。

(※ 上の写真は5月はじめ、丁岳山頂からみた鳥海山です。)

 

経ケ蔵山 十二ノ滝コース 2

 

昨日アップした経ケ蔵山の記事は咲いていた花の紹介だけでしたが、景色もとてもよかったので、それをいくつか掲載します。新緑がわけても非常に美しいです。

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十二ノ滝の一番上のほう

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登山口に向かう林道より見上げる山腹

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同じく林道より

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経ケ蔵山の肩にあがるまでは相当急な斜面だが、道の両側に花がいっぱい

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肩にあがってしまえばあとはゆるやかな快適な道で、ブナ林が続く

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やせた尾根の上を行く。針葉樹は風下の東側だけに生えている

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頂上に間近い須弥壇岩より東方の眺め。遠くに猪鼻岳や弁慶山やチンネも見える

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経ケ蔵山頂より南に胎蔵山

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経ケ蔵山頂より北に鳥海山

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十二ノ滝の最下部。吊橋を渡った左岸は崖崩れのため通行禁止になっていた