※※ タイトルの入力が先日来うまくいかないので(ブログソフトのバグ?)、とうぶんの間「タイトルなし」とし、本文冒頭に見出しをすこし大きく付けることで代用とします。
コーヒーブレーク14 「屑篭」
春眠の春夏秋冬めぐりきし
夢の中では時間の流れが現実世界とは大きく異なる。速度もちがえば順序もちがう。数日数年があっと言う間に過ぎ去ったり、過去と現在をかるがると往復したりする。現実には絶対にありえないような途方もないような夢をみることはまずなくなったが、時間だけは自由自在である。/前に読んだ『ピダハン』という本では、アマゾンに住む少数先住民族=ピダハンにとっては、夢は現実そのものであるという。なぜなら「実際に私がそれを見た」からである。夢を見たのはまぎれもなく実在する私やあなたなのであるから、それが経験したことは夢であれなんであれたしかに実在するのだと。なるほどそれもひとつの真理ではある。しかし彼らはけっして夢想家というわけではない。ピダハンには神話もおとぎ話もない。なぜならそこに登場する人物は誰ひとりとして眼前しないからである。今いないし、いたことを知っている者も今いない。したがってそんな根拠のないでたらめな話は信ずるわけにはいかない、と。ピダハンの文化を調査し記録した文化人類学者ダニエル-ベネットはキリスト教の伝導師でもあったのだが、彼がキリストの話をしたとたん大笑いされてしまう。
あたたかや刃物の面に指をあて
暖かさも寒さも相対的なものである。絶対的な気温としては言うまでもなく夏のほうが高いのだが、ああ暖かいと感ずるのはむしろ寒い冬がようやく終わり春が訪れたときだ。そのときの気温はたとえばせいぜい15℃でしかないかもしれず、夏ならば寒さを覚える温度であるにしても。それゆえ、「あたたか」または「ぬくし」は俳句では春の季語とされている。/刃物を砥石で研ぐときに、ちゃんと研げているかどうかを確かめるのにまず目で見て、それから刃先を指の腹でそっと触ってみる。仕上げの鉋やのみなどであれば刃先の厚みは数ミクロン以下だろうが、それくらいに研げているかどうかは指先の感触でたしかにわかる。
屑篭へ白い小鳥の飛びかいぬ
上記の「あたたか」や「ぬくし」が春の季語だというのは主観的な感覚としては納得できるのだが、小鳥が秋の季語とされているのはどうかなあ。正確には「小鳥来る」「鳥わたる」「鳥雲」「色鳥」など、小鳥類の生態動態を加味してはじめて秋の季語とされるのだが、なんとなく小鳥そのものが秋らしいと俳人には思われているふしがある。実際には渡り鳥にしても春・夏に渡ってくる鳥類はけっして珍しくはないのだが。/小鳥はまあグレーゾーンという気がするが、熊や狐・狸・イタチ・ムササビ・兎・鯨などの動物がみな冬の季語というのは、どう考えてもおかしい。それは猟師や漁師の活動時期、それに食い物としての分類(!)のようなもので、それら動物に対する視線が現代においてもそれでは、まったく偏屈したものでありかつアナクロニズム以外のものではなかろう。
(※ 上の写真は5月はじめ、丁岳山頂からみた鳥海山です。)