すこし遅くなりましたが、3月19日に行われたシテ句会です。奇数月の第三水曜日に開催する決まりになっているのですが、今回は幹事・司会役の仕事の都合で木曜日となりました。『シテ』は短詩形文学の作品発表と批評を目的とする同人誌ですが、6号を先頃発行しています。メンバーは酒田市在住を中心に現在9名です。俳句も短詩形のひとつということで、外部にも開いたかたちで句会を行っています。今回の参加者は相蘇清太郎・阿蘇豊・伊藤志郎・今井富世・大江進・大場昭子・加藤明子・金井ハル・高瀬靖・南悠一の10名でした(敬称略)。
『シテ』6号にも小論として書いたことですが、句会の進め方はごく一般的なものです。事前に無記名で2句投句、清記された2枚の句群から参加者が当日その場で2句ずつ選句し、合評が終わってから作者名を明かします。先入観を排し、できるだけ忌憚のない、また遠慮会釈のない批評をうながすためのよくできた仕組みだと思います。
以下はいちおうこの句会で主宰をつとめる私=大江進からみての講評です。もちろん文学ではこれが唯一の正解というのはなく、各自好きなように思うように詠んだり解釈すればいいのですが、異論・反論がありましたらぜひコメントをください。では第一幕から。各句の頭の数字は得点です。
5 黒猫のごおと息せり星月夜
4 春めくやのんびりお茶も冷めていく
1 あおやぎや犬のまなこの柔らかき
0 川底にシャケのむくろ身白く在り
2 春疾風子鼠転ぶ朝かな
2 電柱の影をたどりてばんけ摘む
0 春夕べ百獣の王が叱られている
1 そよ風によろめき摘むやふきのとう
2 言いそびれて熱っぽい二月チョコを買う
3 雪しろの染めかえたるか波の青
最高得点は1句目の<黒猫の〜>です。星月夜は本来的には秋の季語とされているものですが、月夜かと思うほどの満天の星のもと、黒猫がなぜかごおと大きな息をしています。星月夜はただ美しいだけでなく一抹の不気味さや冷酷さといったものも感じさせますが、それが尋常ならざる猫のようすとうまく響きあっているようです。私も取りました。作者の相蘇清太郎さんによれば、これは飼っていた黒猫の最期の吐息とのこと。それをきくとますます訴求するものがあります。力が尽きて、肺にたまっていた空気が一気に抜けていったんでしょうね。
次点の4点句は2句目<春めくや〜>ですが、きびしい冬もようやく終わりがみえてきて、のどかな気持ちになってきたなあというのはよく分かるのですが、それだけという気もします。陽光がふりそそぎ、木の芽もふくらんできて、そんな景色をのんびり眺めているうちにお茶もぬるくなっていったのでしょうが、あまりにも予定調和にすぎませんか。「じじむさい」という声もありましたし……。作者は阿蘇豊さん。
次は3点句で10句目の<雪しろの〜>です。雪しろは雪解水でありそれが集まって流れ下る早春の河川のことでもあります。とりわけ強い雨が降った後は急激に水量が増し、泥水も混じって濁った色合いになってしまいます。しかしそれも時が経つにつれてしだいに濁りが取れ、青緑色の流れに変わります。ただ下五の「波の青」がいまひとつ分かりませんでした。作者の今井富世さんは河口の気水域の波の青さと言われるのですが、それではかえって焦点がぼけてしまったように思います。さすがの雪しろも海に入ってその青さに没入してしまったとするなら、それは<白鳥は哀しからずや海の青空のあをにも染まずただよふ>(若山牧水)の反歌みたいな。
2点句は三つです。5句目の<春疾風〜>は私も取ったのですが、この鼠は幼い鼠というよりもカヤネズミのような成体でも数センチしかないくらいの小さな野生の鼠が似合います。たしかに烈風に吹き飛ばされてしまいそうです。ただし表記的には全体的に漢字がひしめいて窮屈すぎる感があるので、<春疾風子ねずみ転ぶあしたかな>くらいにすると、小鼠の愛らしい雰囲気も出るかなと思います。作者は大場昭子さん。
次の2点句は6句目の<電柱の〜>です。道ばたに萌え出している蕗の花を摘んでいるようですが、電柱の影と山菜との取り合わせはどうでしょうかね。実景かもしれませんが、もっとふさわしい対象がありそうです。作者は加藤明子さん。三つ目の2点句は9句目の<言いそびれて〜>ですが、バレンタインデー周辺の景であることは明らかですし、あまりよろしくない意味で女子高生の俳句みたいですね。チョコだけに甘過ぎ。とくに上句の「て」は不要でしょう。作者は金井ハルさん。
3句目の<あおやぎや〜>は初めは貝のアオヤギか?とも考えたのですが、青柳のことのようです。だとするとイコール下五の「柔らかき」そのままなので、付き過ぎです。作者は南悠一さん。4句目の<川底に〜>は産卵・放精を終えたサケの遺骸のことですが、実景そのもので膨らみに欠けます。その先を詠むか視点をかえてほしいです。作者は伊藤志郎さん。
7句目の<春夕べ〜>は私の句ですが、点は入りませんでした。百獣の王と称される雄のライオンが、動物園で飼育係または雌のライオンに叱られている、そのちょっと滑稽かつ哀愁をおびた感じを出そう思ったのですが……。8句目の<そよ風に〜>は実際にそうだったのかもしれませんが、やはり大げさで、しっくりしません。作者は高瀬靖さん。
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参加者10名くらいでも、全部の句に、かつできるだけ皆さんから意見を出してもらうようにすると、あっと言う間に1時間以上が過ぎてしまいます。自由闊達に発話するのはいいのですが、冗長になったり横道にそれすぎないようには注意しないといけません。小休止のあと第二幕です。
4 初蝶に光をあたえ空あたえ
6 おにはそとどすんと雪が落ちてくる
1 ひっそりと蔵のある町落椿
1 櫃開くる去年の桃の香風に舞い
3 草もちを頬ばりをれば月の山
2 日だまりをひろうて咲くや蕗の花
3 納豆汁最後のいもがら仲直り
0 ごおと言う鵙の息ありや父逝けり
2 ネピアで洟をかむ山が雪崩れる
0 春渚波もおのずとソラシドレ
最高得点は2句目<おにはそと〜>です。もちろんこれは節分の日の追儺(ついな)で、「鬼は外、福は内」という豆撒きのかけ声です。節分は立春の前日で、新暦では2月3日頃ですが、寒さはまだ厳しく冬のまっただ中ながらも、晴れれば日中は気温があがり暖かい日もあります。そんなときは屋根に積もった雪が一気に落下することも。しかしそういう理屈よりも、まるで「鬼は外!」という大きな叫び声が屋根の落雪をさそったかのようです。この句は上五のセリフや中七の「どすんと」が効果的です。私も取りました。作者は伊藤志郎さん。
次点4点句は1句目の<初蝶に〜>です。初蝶は春先に出てくるモンシロチョウやキチョウなどの小型の蝶のことで、春の季語となっています(アゲハ類の大型の蝶は夏の季語)。蝶が舞うようになると、ほんとうに春が来たのだという気持ちになりますね。それをリフレーンで光と空をあたえとたたみかけるのは、効果的ではあるものの安易というそしりもあるかもしれません。作者は私ですが、果たして蝶に光や空をあたえたのは誰かという話にもなりました。私は無神論者ですので、神様仏様ではなく大自然や自然の摂理が蝶にあたえたのだと考えています。
3点句はふたつで、5句目の<草もちを〜>は定型のよろしさという声がありましたが、その通りでしょうね。草餅だからそれほど上品ぶらずに口をあんぐりと開けて食べたのでしょうが、口を大きく開けるとおのずと顔がすこし上向きになります。そうしたら月山が視野に入ってきたという景でしょうか。草餅だからいいと思います。作者は高瀬靖さん。
次の3点句、7句目の<納豆汁〜>は、私にはどうもうまく受け取れませんでした。仲直りしたのは誰なのか(何なのか)、判然としません。いもがらその他の具が入って混沌としていた納豆汁が、食するにつれ整然としてきたことを仲直りとみたという解釈もありましたが、すこし無理があります。作者の金井ハルさんによれば、仲直りしたのは共に納豆汁を食べていた人間のほうだとのことですが、それも説明されないと分からないです。
2点句は2句ありました。6句目の<日だまりを〜>は、フキノトウ(蕗の薹)の説明そのままです。日だまりではなくもっと別のなにかを拾う・追うとしたらどうでしょうかね。作者は今井富世さん。9句目の<ネピアで洟を〜>はティッシュペーパーのブランドのネピアのことで、それはすぐ分かるものの、さすがにそれで山が雪崩れるのは飛躍しすぎかなと感じます。さきほどの2句目の「おにはそと」と落雪はすんなりと納得できますが、洟をかむのと雪崩は、付き過ぎならぬ離れ過ぎかと。いえいくら離れていても、読者の腑に落ちさえすればなんでもかまわないのですが。作者は南悠一さん。
3句目、<ひっそりと〜>は常識的。4句目、<櫃開ける〜>はやはり常套的かつ素材が多すぎ。8句目の<ごおと言ふ〜>はモズとではやや付き過ぎでしょう。第一幕の<黒猫の〜>と比較すると同じ作者ですが差は歴然としています。10句目の、<春渚〜>は言葉遊びで終わってしまっていませんか。作者は順に大場昭子さん、加藤明子さん、相蘇清太郎さん、阿蘇豊さん。辛口どうかご容赦を。
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私はこれまでいくつかの句会を経験しましたが、10名くらいがちょうどいいですね。多くてもせいぜい20名くらいまでで、それ以上になると選句もたいへんだし、批評も高得点句などごく一部の句に限定されてしまいます。また、じっくりゆっくりと、あるいは多面的視点で選ぶ余裕がないので、形のできた分かりやすい句のみに点が集中するきらいがあります。「高得点句に佳句なし」といわれる由縁です。
逆に参加人数=投句数がすくなすぎると、まあだいたい誰の句か推測できてしまうので、作者と切り離して作品自体を語るという原則が崩れてしまうおそれがあります。なれ合いに陥る危険もあります。
得点もそれはたくさん入ればうれしいには違いありませんが、誰がどの句を取ったかということや、どのような批評がなされたかということはもっと重要です。俳句は五七五とたいへん短いがゆえに解釈が多様になることが多く、作者がまったく想定していなかった読みがなされることもしばしばです。
作者はその句が生まれた情景や背景をとうぜん知っていることで、逆にそのことに強くとらわれてしまうことがあります。読み手は理想的には作品そのものと向かい合うので、その差が句会では露呈するわけです。しかしそれはもちろん欠陥ではなく、句が飛躍する契機となります。だからこそ句会はおもしろいと思っています。