月別アーカイブ: 2月 2015

なんだ? アル

 

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キッチンのところにニャア〜といってやって来たアルです。アルビフロラ(albiflora ラテン語で白い花という意味)というのが本名なのですが、ちょっと言いにくいのでみんなからアルと呼ばれています。生後推定約9ヶ月ですが、そろそろ発情期かな。

細身、軽量で、贅肉は皆無。体重は2.45kgほどで、もう一匹のトントのちょうど半分しかありません。ほぼ全身白いのですが、頭のてっぺんにほんの少しだけ黒いところがあります。尻尾の付け根のあたりの黄色(淡黄褐色)は体色ではなくたぶん汚れかな? 写真では銀色の首輪を付けていますが、白猫なのでだいたいどんな首輪でも似合います。トントのも含めて10個ばかりの首輪があるので、一ヶ月に一度くらいの頻度で取り替えて楽しんでいます。

 

2月の月光川本流

 

久しぶりに月光川(がっこうがわ)の川縁を散歩しました。今年の冬は比較的雪が少なく、平野部の道路は雪が消えてしまいましたし、田畠や林地もまるで3月くらいの感じです。気温はまだ零下になる日も多く寒いのですが、晴天で風があまりない日中はだいぶぬくもりを感じます。

 

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ネコヤナギ(猫柳)の芽がふくらんできました。もうじき花が咲きそうです。

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川底に沈んでいる白っぽいものは産卵・放精を終えたサケの死骸です。「ほっちゃれ」とも言います。月光川本流ではだいぶ前からサケの孵化事業は行っていないので、毎年自然産卵のサケが日本海からかなり遡上してきます。川床から湧水が出ている細かい砂利のあるところで産卵します。

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川岸や川の中に点々とサケの死骸がありますが、これは長さ80cm以上もあるじつに立派な雄の固体です。これらは鳥やタヌキやネズミや虫に食われ、バクテリアが分解して、ほどなく跡形もなくなってしまいます。自然にうまく循環していくわけですね。

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たぶんスズメだと思うのですが、ネコヤナギの茂みにまぎれるようにして100羽ほどの小鳥が群れをなしていました。コンパクトデジカメのため拡大しトリミングしてもはっきりとは写っていないのが残念です。

 

コーヒーブレーク 40 「国道七号線」

 

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鏡開けば節分の鬼がひとりいる

鏡開きは本来は正月に歳神に供えた鏡餅を割ることであるが、現在は家庭では真空パックに入った鏡餅だったりすることも珍しくないので、そのぶん日にちが遅れてから鏡開きを行うこともあるだろう。餅は硬くなってしまった場合は木槌などで叩いて割るのだが、切ったり割ったりということばを忌みきらって「開く」というのだそうである。そういった風習を伝統的なもの、正式なものとしてなにやらかしこまってもの申し拝聴するのだが、よく考えてみればそれはほとんど駄洒落のようなものである。/そういえば結婚式のご祝儀は二つに割れない数字である1万円とか3万円がのぞましく、2万円はさけるべきなどということを大真面目に語っていた人も先日いたな。ばかばかしい。そういうこじつけや迷信の類いが世の中をとても窮屈にしていると思う。

とりあえず長須鯨をいただくか

「とりあえずビール」なる一声も、ずいぶんな言い草である。ビールこそが飲みたいし本命だと思っている人も少なくないはずで、日本酒やら焼酎なぞはいらんという人もいるはずなのにね。酒飲みではない私などは、はじめから自分がいちばん飲みたい飲み物をてんでに頼めばいいのじゃないかなと思うんだが。酌をするのもされるのも嫌いだしな。/鯨はなぜか冬の季語である。次の句の狸や、兎や熊も同様で、つまりは冬に捕って食うことを第一に考えているだけである。この日本列島において冬にしか渡来しない渡り鳥などを冬の季語とするのは理解できるが、一年中そこらにいる動物を冬のものとするのは、あまりにも人間の身勝手すぎやしないだろうか。それで「俳句では自然をだいじにして」などと主張されてもね。

狸がひとつ落ちている国道七号線

狸は字面のごとく人里の近辺で生きている野生動物である。深山にはいない。そのためもあってか、よく車にひかれている。私は自宅から工房に車で10〜15分ほどかけて通っているのだが、そのとき通る国道でときおり狸の礫死体を見ることがある。1年間に何回か遭遇するので、全国ではおそらく数万匹のの狸が車の犠牲になっているのではないだろうか。とりわけ昨年秋のそれは酷い状態で、大型トラックにでも踏みつぶされたのか、胴体が完全に分断されて血や内蔵があたり一面に飛び散っていた。/その日のうちに死体は片付けられて道路もいちおうは掃除されたのだが、アスファルトにしみついた血液や体液はきれいには除去できなかったようで、その後1ヶ月以上にわたって黒い染みが残っていた。あわれである。

 

毛玉とり器

 

フリースの上着やら靴下やらの毛玉があんまりひどいので、100ボルトの交流電源にコードをつなげて使うタイプの毛玉とりを使っています。TESCOMKD778という機種です。これまでは電池式の毛玉とり器を十数年使用していたのですが、電池を充電式のエネループにかえているとはいえ、使用中にだんだん力が落ちてくるし、そのたびの電池交換&充電もけっこう面倒。それに比べるとコード式なのでパワーは安定しており、おもしろいくらいに毛玉がとれます。

ただし気になる点も。ひとつはセーターなど毛足をある程度残して適度に毛玉をカットするための「風合いカバー」がかなり硬めなことです。外刃の丸いリング(こちらはねじ込み式)のふちにひっかけるように押し込んで装着する仕組みなのですが、外すときにかなり力を入れないと外れません。注意してやらないと薄い外刃のメッシュを変形させてしまいそうです。

もうひとつはスライド式のスイッチのまわりのくぼみの縁がまったく面取りされていないので、そのままでは痛いことです。これはカッターナイフで自分で0.5mmほどエッジを削って直しました。

毛玉が多くなると着心地がわるくなるし、見た目にもいかにも貧相な感じになってしまいます。そうした理由で衣装ケースの奥に埋もれてしまっていた衣類が、このような毛玉とり器で新品みたいによみがえります。

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シテ句会 2015.1.22

 

奇数月の第三水曜日に開催しているシテ句会ですが、今月は事情があって次の日の1月22日に変更となりました。『シテ』は短詩形文学の作品発表と批評を目的とする同人誌ですが、メンバーは酒田市在住を中心に現在8名です。俳句も短詩形のひとつということで、外部にも開いた形で句会を開いています。今回の参加者は相蘇清太郎・阿蘇豊・今井富世・大江進・大場昭子・金井ハル・南悠一の7名でした(敬称略)が、他にひとり見学の方が加わりました。

句会の進め方は一般的なものと同様で、事前に各自2句ずつ無記名で投句し、当日、清記された2枚の句群からそれぞれ2句を選句します。選ぶ基準は自分からみてすぐれた句と思う句を選ぶわけですが、微妙にポイントはそれぞれ異なるようです。それもまた自由であって、とくに縛りがあるわけではありません。それから誰がどの句を取ったかを発表してもらい、各句の得点を数えます。次いで高点句から順に忌憚のない合評を行い、それが終わったところで初めて作者が名乗り出るという仕組みです。全体の投句数がそれほど多くないかぎり、できるだけすべての句に批評を行うことができるようにします。

以下はいちおう主宰の任を負う私=大江進からみての講評です。むろん文学ですから異なる意見や感想があるのは当然で、そのへんも含めて読者からコメントをいただければ幸いです。では第一幕から。頭の数字は得点です。

5  シベリアの風にぶつかる刺羽あり
3  とりあえず長須鯨をいただくか
0  さびしさも舌巻くほどの出羽の寒風(かぜ)
1  黒猫の雑煮(おわん)より餅盗らむとす
2  雨と霙のあわひにある給水塔
1  なおらないのよ窓辺でふたり寒スズメ
2  あられ舞い本日むすめ入籍す

最高点は1句目の<シベリアの〜>です。ここ山形県庄内地方には「シベリア颪」という言葉があるのだそうですが、冬期間それくらい強い北西の風が吹きます。刺羽(サシバ)は鷹の仲間で体長50cmほどの中型の鳥ですが、見晴らしのいい樹や杭、防雪柵の上に止まって地上のネズミなどを狙います。空中で風に拮抗するようにホバリング状態で飛んでいることも多いですね。イメージはすぐに浮かぶのですが、「ぶつかる」だと風の勢いに負けているような感じがしなくもないです。作者は大場昭子さん。

次点句は2句目<とりあえず〜>です。酒席で「とりあえずビール」みたいな調子で鯨を、しかも長須鯨をいただくという情景は実際にはまずありえないでしょうから、これは現代の捕鯨をめぐるあれこれへの皮肉や風刺の味わいがあろうかと。じつは私の句ですが、俳諧的なおかしみがある、口語が効いているという評がありました。こういったあまり俳句っぽくない句が比較的すんなりと受け止めていただけるのは喜ばしいです。

2点句はふたつありました。5句目<雨と霙の〜>は、霙が雨に変わってしまうということですから、かなり高さのある給水塔であることがわかります。もしかしたら塔上のタンクは霙でけぶってよく見えないかもしれません。いい句です。私も点を入れました。ただ雨が霙に変わるということではないと思いますし、一本調子に流れないように「雨と霙のあわひにあり〜」としたらどうでしょうかね。作者は南悠一さん。

次の2点句は最後の<あられ舞い〜>です。霰が強く降っている天気ですから、娘さんの入籍にいたるまでにはいろいろあったことがうかがわれます。親としては複雑な心境なのでしょう。もっとも表記は「霰舞い」とするか、「あれら舞う」とするともっといいかなと思います。作者は阿蘇豊さん。

4句目の<黒猫の〜>はじつは作者=相蘇清太郎さんによれば夏目漱石の『我輩は猫である』から題材を取ったとのこと。餅を盗ったのはいいものの、喉につかえてそれが元になって水瓶に落ちて死んでしまった猫のことですね。しかし、「雑煮」に「おわん」とルビをふるのはちょっと強引すぎますし、その後に餅とあるので「お椀」でいいのでは?

6句目の<なおらないのよ〜>は漠然としすぎて読者はつかみどころに欠けます。まあ、窓辺に人が二人いてなにかを話し合っているのでしょう。そして窓の近いところにふっくらとした冬の雀が数羽いるという状況ですから、そう深刻な話や言い争いではなさそうですが。「寒スズメ」は「寒雀」ですね。作者は金井ハルさん。

3句目の<さびしさも〜>は「出羽」は不要かと。また「寒風」と書いて「かぜ」と読ませるのはどうでしょうか。いっそ<寒風やさびしさは舌巻けにけり>くらいにしたほうが俳句らしくなりますね。作者は今井富世さん。

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句数が7句と少な目だと、批評しあうのに時間的にはだいぶ余裕があります。小休止のあと第二幕です。

2  門松に雪飾りいて晴着かな(いは旧かなのい)
1  来たことがあるかもしれない枯葉道
2  ポインセチア長く咲きすぎた酒を飲む
3  狸がひとつ落ちている国道七号線
1  凍風粉雪命ごいが一つ
0  さまざまの物音の中年惜しむ
5  林檎むく空にわずかな瑕がある

最高点は7句目の<林檎むく〜>です。現代詩の一節みたいです。林檎をむくことと、空にまるで傷(瑕)があるようだということとは直接的にはまったく関係がないわけですが、心象風景としては理解できます。ロマンチックである、格好がいい、ルネ-マグリットの絵を想像した、といった評がありました。私も取りました。でも、なにかすこし物足りないような気がします。作者は南悠一さん。

次点3点句は4句目の<狸がひとつ〜>で、私の句です。狸は俳句歳時記では冬の季語ということになっていますが、冬に限らずときおり狸が轢かれています。「落ちている」ですから、礫死体というよりはぱっと見にはただモノがごろんと落ちているだけのような、まさしく即物的な感じです。それだけにいっそう悲惨さを覚えることも。結句は10音と字余りもいいところですが、ここまで言い寄らないと上・中が生きてこないでしょう。

2点句はふたつあり、1句目の<門松に〜>は私も取りました。もっとも私は晴着は門松とは別個に実在するものと解釈して、季重なりながらかつ常套的ながらもいい感じだなと思ったのですが、作者の相蘇清太郎さんの弁によると下五は上中がそのまま修飾としてかかるとのこと。う〜ん、だとするとあまり面白くないです。天の神様が晴着が映えるように粋な計らいで、あるいは雪が少なくては淋しいとばかり家族なり友達なりが門松に雪をかぶせた、と想像したほうが面白いと思いましたが。

もうひとつの2点句は3句目の<ポインセチア〜>ですが、中句で「長く咲きすぎた」と言い過ぎているので、かえって句柄を細くしてしまっていると思います。さらに下五で「酒を飲む」ときたのではこれは演歌ですね。すみません。作者は金井ハルさん。

2句目の<来たことがあるかもしれない〜>は上・中が一足で続き、しかも下が枯葉道なので、常識的に予定調和的になってしまったと思います。上・中を工夫することでもう一語入れることができそうです。もしくは下五をありきたりではない、例えばですが「獣道」とかにしたらどうでしょうか? 作者は阿蘇豊さん。

5句目<凍風粉雪〜>は、命乞いをしているのはいったい誰なのか何なのかよくわかりません。凍風か粉雪のどちらかひとつ消すかしてもう一語入れれば、焦点がはっきりすると思うのですが。作者は今井富世さん。

6句目<さまざまの〜>は、年の背でなにかとあわただしく、片付けやら掃除やら買出、調理やらで忙しいなかにも、一瞬間しんと物音が消えたようになることがある。あるいは騒がしいからこその、芭蕉の<閑さや岩にしみ入る蝉の声>のような思い……。それはよくわかるのですが、「年惜しむ」は情緒的すぎる季語ですし、もっと全体に工夫が必要でしょうね。作者は大場昭子さん。

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7句しかないと逆に選句は苦しいです。また句数が少ない分、みんなから言いたいことを言いたいようにさんざん言われて、ひとによってはかなり凹むかもしれません。ですが、それがこういう少人数の句会のいいところでもあります。当然ですが誰も難癖をつけているわけではく、自分の句も他の人の句も、どうすればもっとよくなるかに腐心していると思うのです。1字を変える、上と中・下の順番を入れ替える、漢字をひらがなにする。それだけであ〜ら不思議、句ががぜん生き返ります。俳句は言葉の魔法なることの「実体験」といっていいと思います。

シテ句会は今の体勢になってからもうじき1年になりますが、私は非常に楽しみにしていますし得難い勉強の場になっていると考えています。つたない主宰ですが、これからもよろしくお願いします。