鏡開けば節分の鬼がひとりいる
鏡開きは本来は正月に歳神に供えた鏡餅を割ることであるが、現在は家庭では真空パックに入った鏡餅だったりすることも珍しくないので、そのぶん日にちが遅れてから鏡開きを行うこともあるだろう。餅は硬くなってしまった場合は木槌などで叩いて割るのだが、切ったり割ったりということばを忌みきらって「開く」というのだそうである。そういった風習を伝統的なもの、正式なものとしてなにやらかしこまってもの申し拝聴するのだが、よく考えてみればそれはほとんど駄洒落のようなものである。/そういえば結婚式のご祝儀は二つに割れない数字である1万円とか3万円がのぞましく、2万円はさけるべきなどということを大真面目に語っていた人も先日いたな。ばかばかしい。そういうこじつけや迷信の類いが世の中をとても窮屈にしていると思う。
とりあえず長須鯨をいただくか
「とりあえずビール」なる一声も、ずいぶんな言い草である。ビールこそが飲みたいし本命だと思っている人も少なくないはずで、日本酒やら焼酎なぞはいらんという人もいるはずなのにね。酒飲みではない私などは、はじめから自分がいちばん飲みたい飲み物をてんでに頼めばいいのじゃないかなと思うんだが。酌をするのもされるのも嫌いだしな。/鯨はなぜか冬の季語である。次の句の狸や、兎や熊も同様で、つまりは冬に捕って食うことを第一に考えているだけである。この日本列島において冬にしか渡来しない渡り鳥などを冬の季語とするのは理解できるが、一年中そこらにいる動物を冬のものとするのは、あまりにも人間の身勝手すぎやしないだろうか。それで「俳句では自然をだいじにして」などと主張されてもね。
狸がひとつ落ちている国道七号線
狸は字面のごとく人里の近辺で生きている野生動物である。深山にはいない。そのためもあってか、よく車にひかれている。私は自宅から工房に車で10〜15分ほどかけて通っているのだが、そのとき通る国道でときおり狸の礫死体を見ることがある。1年間に何回か遭遇するので、全国ではおそらく数万匹のの狸が車の犠牲になっているのではないだろうか。とりわけ昨年秋のそれは酷い状態で、大型トラックにでも踏みつぶされたのか、胴体が完全に分断されて血や内蔵があたり一面に飛び散っていた。/その日のうちに死体は片付けられて道路もいちおうは掃除されたのだが、アスファルトにしみついた血液や体液はきれいには除去できなかったようで、その後1ヶ月以上にわたって黒い染みが残っていた。あわれである。