※※ タイトルの入力が先日来うまくいかないので(ブログソフトのバグ?)、とうぶんの間「タイトルなし」とし、本文冒頭に見出しをすこし大きく付けることで代用とします。
シテ 3号
詩の同人誌『シテ』の第3号です。山形県酒田市を拠点として、年に3回発行を目標、現在10名ほどの会員がいます。シテとは能や狂言の演者のシテであり、「〜してください」のシテ、また詩の書き手という多重な意味合いをもつとのこと。主眼は現代詩の作品発表ですが、今号には俳句も掲載されています。その俳句は私のもので「大旦」という題による比較的最近の15句です(当ブログのコーヒーブレークに掲載した句と多くがだぶっています)。とくに規制はないのですが俳句もいわゆる現代俳句で、私は季語・定型は尊重はしますが絶対視はしませんし、旧字・旧かなは原則使いません。
私の俳句は下の写真をみていただくとして(写真にカーソルを当てクリックすると拡大します)、他の方の7篇の詩に対して私の感想を簡単ですが記してみたいと思います。
早川孝子「スカート」 いつものように(?)男女関係における女性側からの辛辣でウィットのある言葉。スカートというほぼ女性専用の衣服をモチーフに、それが隠しているものと逆に表彰するものとをたくみに暗示しています。うまいなあとは思うものの、私はあまりこの世界には近づきたくありません。「よしこさん」に対する「帰り道がわからなくなるといい」というフレーズも非常に怖い。装いが常のものとなり過剰となれば、いったい何を装うとしていたのかも忘れてしまうでしょう。そういえば上野千鶴子に『スカートの下の劇場』(河出書房新社1989)という著書がありましたね。
南悠一「積年」 降り積もる雪は容赦なく過ぎ去っていく時間の喩でしょうか。子ども時代の雪景色と、現在の雪景色とをオーバーラップさせながら彼は黙々と雪を踏みしめていくのですが、「もうもうと煙る吹雪となった/それからは何も見えない」とあるように、郷愁というだけでなく無数の断念とか挫折や悔悟もかみしめているようです。
阿蘇豊「プレパラート」 冒頭に「きょうのことばはついになく/きのうからかりてはりつける」、そして最後に「おれのことばはついになく/他人のことばでこれを織る」は、まったく同感です。新しい言葉はなかなか産み出すことはできません。しかし言葉は他者があり時間の積み重ねがあってこそのもの。我彼の意志疎通もしくは隔離・区別のためにこそ言葉が必要であることも自明の理で、その意味ではこの詩はやや平板。ここから先の、他者の言葉に自分の言葉を、過去の言葉に現在の言葉をどのように紡いでいくのかを、もうすこし緻密に執拗にみていきたいです。
今井富世「癒しは、はじまる」 飼っている猫、なんでしょうか。よくわかりません。降る雪の白さや柔らかさと猫のそれとをかけてるような…。私も猫を長年飼っているので、その存在がたいへん大きな慰めになっていることは痛感します。
相蘇清太郎「草花の名について」 人間の世界は「悲しみが血のように溢れていても」、路傍の草たちはそんなことには無関係に葉をのばし花を咲かせています。ユウガギクもイヌタデもいわゆる雑草と呼ばれるありふれた植物ですが、よくみればとても美しく愛らしいものですね。人もそのようにありたいもの。野の花を眺めていると心が休まります。もっともイヌタデのほうは蔑称としてのイヌをわざわざその名前に冠らされており、ちょっと悔しいです。
高瀬靖「弟たちのこと」 高瀬さんに弟さんが二人いたこと、そして幼くして亡くなったことはこの詩ではじめて知りました。最終行の靖国神社に対する「ワタクシ「靖」ハ 汝ト刺シ違エテ死ネレバ ト願ッテオリマス」という宣告は非常に重いです。しかしながら失礼ながら、詩としては題材負けという感想をどうしても受けてしまいます。この内容ならばきっちりとエッセイにしたほうがよかったかもしれません。
江口暢子「皿」 二十枚一組という某家の食器、皿。昔は冠婚葬祭などの集まりをたいてい自分の家で行ないましたから、たくさんの器が必要だったのです。引っ越しの手伝いでそれを紙に包んだりしているのですが、皿の模様を眺めたり家族の来歴などをおしゃべりしながらののどかな作業です。と思いきや「それにしても/今年の雛菓子の色が許せない/もう少し淡いほうが品がいいのに」という言葉が唐突に出てきます。「テーブルを覆うような大皿/一体何で包めばいいのかと」と続きますが、つまりこれは大家族(?)をめぐっての軋轢やしがらみでしょうかね。
※ シテの句会を3月から始めています。原則として奇数月の第二水曜日(→第三に変わるかもしれません)18時半から、酒田市のアングラーズカフェにて開催。次回は5月14日の予定です。おおむね当季の季語を入れた自由題で二句を、前月末までに無記名で提出していただき、当日それをみんなで批評しあう形です。