※※ タイトルの入力が先日来うまくいかないので(ブログソフトのバグ?)、とうぶんの間「タイトルなし」とし、本文冒頭に見出しをすこし大きく付けることで代用とします。

コーヒーブレーク 11 「占い」

 

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草木に心はありや涅槃西風

陰暦の二月十五日の涅槃会前後に吹きつのる西風が涅槃西風(ねはんにし)であるが、現在では月遅れの三月十五日に涅槃会を行うことが多い。この頃に吹く強い西風といえば、つまり春一番のことでもあるか? /さて草や樹にも心はあるだろうか。園芸用や観賞用の草木には高等動物のように心があり、やさしく声をかけながら育てるとよく育つといった類いの話もあるが、私自身はそれは幻想だろうと思っている。もし植物にも心があるなら、農作物の収穫や森林の伐採などすればものすごい怨嗟がわき起こりそうだし、庭の草刈りや草原の草を踏むのさえ情け容赦のない殺戮や虐待ということになる。切り花などもさしずめ斬首刑というところか。

山あり谷あり折紙の生命線

子ども向けの雑誌の付録や、折り紙の解説本などを見ると、ここは山に折るまたは谷に折るなど指示する言葉がいっぱい出てくる。あとから邪魔にならない程度のごく小さな文字で山折り・谷折りが印刷されてあることも多い。なるほどこれはたいへんわかりやすい比喩といえよう。もしその比喩を使わずに折り方を説明しようとすればたいそう困難なことである。折り紙にとってもっとも大事なことはじつは折ってできる面よりも、折線それ自体であるのかもしれない。

谷底ばかり見ている手相かな

巷の隅に小店をひろげる手相占い。私は一度も占ってもらったことはないし、占ってもらおうと考えたこともないが、程度の差はあるとしても少なからぬ人々が占いの言葉を信じてしまうその精神的機序には興味がある。要するに占いは占う側にあるのではなくて、占ってもらおうとする側にこそあるわけで、どのようにも解釈できる占い師のあいまいで多義的な言葉を、占われる側は良いにつけ悪いにつけ自分の都合がいいように自分に引きつけて解釈する。したがって占いはたぶん、いま現在幸せであると感じている人には用はなく、反対に仕事や家庭や健康などに無視し得ぬほどの不安をかかえている人にこそ希求され有用であるのだろう。/世界は広いからひょっとするとほんものの占い師も存在するかもしれないが、彼または彼女は他者よりもまず真っ先に自分の来たるところや行く末がはっきり見えているはず。それはどんなにか恐ろしいことだろう。

 

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