奇数月の第3水曜日に開催している恒例のシテ句会ですが、今回は私=大江進の都合により翌日の木曜日に変更。『シテ』は現代詩や俳句や短歌等の短詩系文学の作品発表と批評を目的とする同人誌ですが(現在8号まで発刊)、有志および外部の者による句会も行っています。場所は酒田駅にほど近い「アングラーズ・カフェ」というお店にて、午後6時半〜9時。
今回の参加者は相蘇清太郎・伊藤志郎・今井富世・大江進・齋藤豊司・南悠一の6名です。大場昭子さんは雪のため車を出せずということで、残念ながら投句のみとなってしまいました。事前に無記名で2句投句し、句会当日は清記された句群(第一幕・第二幕)の中からおのおのが2句ずつ選びます。その句を取った弁、あるいは取らなかった弁をみなで述べ評し合ったあとで、はじめて作者名が明かされます。こうしたやり方は他の句会でもおおむね同じで、先入観を排しできるだけ忌憚のない批評・意見を出してもらうための古来からの工夫です。
以下の記述は句会の主宰をつとめる私からみての講評です。遠慮会釈のない辛口批評を含みます。異論反論も当然あるかと思いますし、コメントいただけたら幸いです。では第一幕から。(頭の数字は得点です)
3 球根の春待つ力微熱帯び
0 新顔の神酒戴くや獅子の脚
1 もう目覚めないかもしれず山眠る
0 秘宝館幻想去りて宙夜澄み
3 やわらかく洋梨の首括りたき
0 年あけて猫の茶碗にも頭つき
5 冬泉深きところに祖先あり
最高点は7句目の<冬泉〜>で5点入りました。私も取りました。冬の泉ですから夏場と違ってむしろ陽光と雪明かりに照らされているのかもしれません。湧いている地下水がゆらゆらときらめいている、そんな感じです。ずっと昔から人々はこの泉をありがたく尊いものとして利用してきたのだという思いが、「深きところに祖先あり」という表現になったようです。ただ泉と深さと祖先とはいささか同質の言葉がそろいすぎかもしれません。またせっかくの「冬の泉」ならではの、夏場の泉とは異なった特徴を出せないかという欲張った注文はあります。作者は大場昭子さん。
次点3点句は二句で、はじめの<球根の〜>は、動植物や何かが春を前にして微熱を帯びるというような表現はよくある表現ですね。また待春の力と微熱を帯びるのは、同じことの繰り返しともとれるので、もうすこし整理したいところです。球根もただ球根と一般名にしないで、具体的な花の名前を、それも意表をつくようなものを持って来ると、ぜんぜん別の展開もありそうです。作者は伊藤志郎さん。
同じく次点の<やわらかく〜>は、洋梨のあのくびれともなんともいえないような不定形を前にしての、微妙な心理を詠んでいます。首を括るとはちょっと過激な表現で、サディステックなにおいもあります。洋梨はラ・フランスという品種が圧倒的に主流で、これは1864年にフランスで発見された品種であり、当地の国王の顔形を揶揄してラ・フランスと呼ばれることになったとの説も。そうした背景も加味すれば、洋梨の味同様になかなかに滋味深い句といえます。作者は南悠一さん。
1点句の<もう目覚めない〜>の下句「山眠る」は冬の季語。しかし目覚めないかもしれないのは、いったい何なのか判然としません。山自体が天変地異等によって通常の春を迎えることがない可能性とも、人間のほうが就寝時にあす無事に目が覚めるだろうかといらぬ心配しているとも、いろいろに解釈できます。実際、睡眠中の突然死なんてことも他人事とはいえないような年齢になってきましたしね。作者は私です。
点が入らなかった三句のうち、<新顔の〜><年あけて〜>は、いづれも正月の挨拶句の類いですから、あまりよけいな評をしなくともいい気もしますが、やはり表現がもたついていてすっきりと読みくだせないところがあります。「新顔の」と先にあるので、獅子の「脚」とまでいわなくともいいでしょうし、「猫の茶碗にも」の「も」は要りませんね。新年なのでいつものキャットフードではなく、おかしらのついた餌をあげたという図ですが、そのままの状況説明になってしまっています。<秘宝館〜>の句は、状況がごたついているますし、「宙夜」はすこし気負い過ぎでしょう。
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さて小休止をはさんでから、第二幕です。
1 初春をことほぐ朝に芹碧し
2 短日をやや刹那にて生きてをり
3 鉄路の音の消ゆる夜や雪嵐
2 大寒や絡みあひしか蛇眠る
3 なんとみごとなおかしらつきのたいやき
0 書初めの紙より白き峰の雪
1 狂ほしき老女の叫び虎落笛
最高点3点句が二句あります。最初の<鉄路の音の〜>は、映画やテレビドラマや小説などに頻繁に登場するシーンではあります。情景も情感もよくわかる。しかしこれではあまりに予定調和的であり常識的すぎるので、夜行列車と雪との組み合わせでもっと別のさまざまな句ができそうです。作者は相蘇清太郎さん。「月並俳句」のおもしろさということを話されていましたが、常套的で定型感にあふれていながらも、だからこそおもしろいという俳句もたまにはありますね。しかしそれはかなりの上級テクニックのような。
もう一方の3点句の<なんとみごとな〜>はもちろん「見事な尾頭つきの鯛」を下敷きとした句です。鯛焼は冬の季語ですが、当然ながらどの鯛焼にも尾も頭もかならずついているわけで、それを「なんとみごとな」ともったいぶった口調でぬけぬけと宣うおかしさがあります。祝賀と上物の頂点のような尾頭つきの鯛と、そんなものとは無縁の庶民的・日常的な鯛焼とを対比的に用いており、じつは本音ではいろいろと言いたいことがありそうです。作者は私です。じつは句会当日に配られた清記では<なんてみごとな〜>となっていたのですが、それは私の字が下手くそだったからでしょう。「なんて」ならば「なんてりっぱな」でしょうね。
次点2点句も二句です。<短日を〜>の句は、季語の短日+刹那はどうにも付き過ぎでしょう。たしかに日が短くなってくると、気持ちのほうも短兵急というか焦って行動してしまうところがあるので、それはよくわかりますが。「やや」としたところでやや救われたかもしれません。作者は南悠一さん。
もうひとつの2点句の<大寒や〜>は、実際の光景をそのままに描いてしまいました。冬眠する蛇が一カ所にたくさん集まっているのはよくあることらしいので(私は実見したことはありませんが)、もうすこしなにかを付与するかまったく別の視点が必要かと思います。しかしながら第一幕の冬泉の句と同様に、身の回りの自然をよく観察感得されているようで、作句の鑑ですね。作者は大場昭子さん。
1点句は二句。<初春を〜>は初春という言葉自体がすでに祝賀の意味合いを持っているのに加え、芹が青々としているそれだけで充分にめでたいことなので「寿ぐ」は要りません。また下五で「碧し」と見なれない表記にしたことも効いていないと思います。作者は今井富世さん。<狂ほしき〜>は虎落笛と老女の叫びでは、あまりにも付き過ぎです。作者は齋藤豊司さん。
点の入らなかった<書初めの〜>は、常識的で陳腐。山の雪が紙のように白いと言われても……。
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俳句の作り方は人さまざまでしょうが、私は吟行は苦手ですし、集まって即興で俳句を作るのもうまくできません。自分の部屋で机に向かって「さあ、俳句を作るぞ」と相当に意識を集中しないとできません。黙って紙を見つめたまましばらくという時もありますが、いちばん効果的なのは私の場合は他の俳人の句集や、定評のある俳句歳時記を丹念に読むことです。すると自分が思いついたような発想や表現はほとんどの場合すでにどこかで誰かが句にしていることがわかります。当然ですね。
ひとと同じような句を作ってもしかたがありません。すべての人がそうであるべきとはさらさら思いませんが、私は娯楽やお稽古事として俳句を作っているわけではありません。したがって真似をするためではなく、真似をしないために、または有名な句の類似句に結果的になってしまわないようにするためにこそ、他者の句は意識的に読み込むようにしなければなりません。したがって以降はそれらとは異なる言葉や表現方法をひたすら模索することになります。
「シテ句会 2016.1.21」への2件のフィードバック