消防車救急車たたずめる花野かな
俳句ではなぜか花野は秋の季語。それに対しお花畑や花畠は夏の季語とされている。前者は花が一面に咲き乱れているとはいえ、広い野原なのでむこうに青空や雲も見えており、さわやかさと同時にどことなく寂しさも感じられる。後者は基本的に花そのものの群開しか語ってないので、きらびやかではあるがちょっと暑苦しくうっとおしくもある。それに「お花畑」はふつうは登山で遭遇する高山の花がたくさん咲いているようすを指すことが多く、登山が夏の季語→だからお花畑・花畠も夏の季語、ということかもしれない。/しかし寒冷地や雪国においては、春こそは花野にふさわしいという気がする。樹々はまだ葉を展開しておらず、明るい山野にイチリンソウやニリンソウ、カタクリやオウレンやスミレが急速にいっせいに花を開いているさまは、まさしく花野そのものである。こういった点からみても、伝統的な俳句の季節感はやはり北国ではないもっと暖かい地方をベースにしていることがわかる。
山よりも高き峠や秋澄めり
峠はその字が示すように、道が山を越えていく際の上りと下りとの分岐点である。登山などの場合とはちがって、生活的社会的な道や道路はできるだけ楽に安全に山を越えて行きたいわけだから、尾根のもっとも低いところを選んで行くのが普通だ。つまり鞍部(コル)が峠となっていることが圧倒的に多い。したがってそれほど高い山でない場合は峠も依然として樹林帯のなかにあり、眺望はあまり得られないこともしばしばである。ところが標高のある山や寒地の場合だと上るにつれて樹木の丈も低くなり、峠に達したとたんに前面が大きく開けて劇的な展望を得ることがある。目指す町や村が眼下にはっきりと見えることもあるだろう。車ならいざしらず、徒歩での行脚であればこれで体もすこし楽になるという思いと、その開けた景色と、目標が指呼にあるということはどれほどの安堵をもたらすだろうか。/ところで一般人がバイクその他の車両で通行できる、世界一標高の高い峠は、インドはカシミールのマーシミク峠で、なんと5582m。2位のセモ峠が5565m、3位のカラコルム峠が5540mというのだが、こりゃいきなり行ったらまちがいなく高山病でアウトですなあ。
星みればひとりぼっちのひとであり
人間のような高等生物が惑星に誕生する確率はとほうもなく低く、サイコロの同じ目が1万回続けて出るくらいの確率だという説がある。学者によって数値の差はあるが、いずれにしてもほとんどありえない、奇蹟としかいいようがないくらいの出来事であることはまちがいないようである。それなのに……。