蜘蛛の糸と思いしが浮いて来い
芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を最初に読んだのは中学生の頃だったかな。教科書に部分的に載っていたのかもしれない。己のみ助かろうとするカンダダの心情ゆえにお釈迦様はカンダダが必死によじのぼってくる蜘蛛の糸をぷつりと切ってしまう。教科書的にはカンダダの気持ちをさもしい、いやしいものとして非難する方向に読み手を誘導するのだが、私の感想は違った。今にも切れそうな細い糸に大勢の罪人が群がってきたら切れそうだと思うのは当然で、カンダダでなくともそれが人間のふつうの感覚だろう。ところがお釈迦様は「かなしい顔をなさいました」とかなんとかいってそれですませてしまうのだ。それはないだろ!人の心を試すようないやらしいことをすんなよ、と私は憤った。/仏にせよ神にせよ、ほんとうにこの世の創造主ならば、つべこべもったいぶったことを言ってないで、この世のいっさいの悪を一挙に解消すればいいじゃないか。「信ずるも者は救われる」とはつまり「信じない者は救わない」という単なる商取引である。神仏がそんな人間みたいなみみっちいことを言っちゃいかんだろ。
湧水のとどろきわたり旱星
湧き水はたとえば鳥海山の場合は、雨雪が地中に浸透してそれがまた地上に湧水となって出てくるまでにおおむね十数年から30年程度とみなされている。したがって地上において大雨や旱魃が続いても湧水が急激に増えたり減ったりすることはない。いわば地面のなかの巨大なスポンジにいったん蓄えられた水が、その保持限界を超えた分だけあふれて流れて地上に姿をあらわすといった感じなので、地上の降水量の増減は平均化されてしまうからである。ただし個別の湧水(湧泉)にかぎっていえば、春の雪解や大雨が降った後は湧出量が目にみえて増えるところもある。雪が溶けた水や降った雨がもともと地中にあった水を圧迫するためにふだんより多くの地下水があふれ出てくるからである。しみこんだ雨水等がダイレクトにすぐに湧いて出ているのではないことは湧水の温度を測ればわかる。
魚のような流木水にもどしやる
木工の一分野ともいえなくもない流木アート。海岸や湖岸、川岸に流れ着いた木の中から自分のイメージを含まらせるのに適した形状と大きさの素材を見つけるのが最初で、かつそれが「作品」としての出来の大部分を決定するという意味では厳密には「作品」とはいえないような気もする。流木という素材に後からあまり手を加えすぎては魅力がなくなってしまうので、むしろ必要最低限の加工にとどめることこそが肝であるのだろう。私自身としては趣味的に流木に興味を覚えることはあるが、仕事として取り組むつもりはないな。