7月15日に恒例のシテ句会を開催しました。『シテ』は現代詩や俳句や短歌といった短詩型文学の作品発表&批評を目的とする同人誌ですが、現在7号の発刊を間近にしています。シテ句会はシテ本体の活動とはやや趣旨を異にするもので、シテの会員のなかからの希望者、それから外部からの参加者によって行われるものです。原則として奇数月の第三水曜日に、酒田駅近くのアングラーズカフェというお店で開催しています(次回は9月16日に開く予定ですので、ご興味のあるかたはぜひご参集ください)。
さて7月15日の句会ですが、参加者は相蘇清太郎・伊藤志郎・今井富世・大江進・大場昭子・齋藤豊司・南悠一の7名でした。事前に2句を無記名で投句し、当日は清記された2枚の句群(第一幕・第二幕)のなかから2句ずつ選出。取った弁、取らなかった弁を一通り披瀝したあとに初めて作者が明かされます。これは先入観を排し忌憚のない批評を行うためです。他の句会でもだいたい同じようなスタイルで句会が開かれていると思いますが、昔からの経験則にもとづいたたいへんよくできた仕掛けですね。
以下は当句会で主宰をつとめる私=大江進からみての講評です。辛口ご免。異論反論はどうぞ遠慮なくお願いします。では第一幕から。
0 じゃがいもの花はドレスに実は馬車に
2 飛魚とんで水平線の裏を見ゆ
2 離岸堤そこまではゆけない五月
3 暗闇とじゃんけんぽん夏木霊
3 痩せ蜘蛛のにじり寄りたり五月蠅
1 渓谷を攫ふごとくの青嵐
3 紫陽花や素知らぬ振りはできません
得点はばらけました。最高点3点句は3つあります。<暗闇と〜>はおもしろい句です。私も取りました。夕まぐれに子供が魑魅魍魎かなにかを相手に大きな声でじゃんけんをしているのでしょうか。子供には見えていても大人にはその相手の姿は見えないのか、と想像すればすこし怖い雰囲気もあります。ただこだま(木霊)は一年中あるもので季語ではありませんので、「夏+木霊」で季節感を表すのはやや強引な手法かなと感じます。もっと別の言葉で季節感を出せないでしょうか。作者は齋藤豊司さん。
3点句の二つ目は<痩せ蜘蛛の〜>ですが、下五の五月蠅(さつきばえ)はこれだけで「うるさい」とも読みますし、蜘蛛も蠅もそれのみで夏の季語なので、どうしてもごたごたした感じがします。痩せ蜘蛛は身体形状が細身の蜘蛛ということで、べつに飢えているということではないでしょうから、うるさいくらいに飛び交う蠅との相性もどうでしょうか。私も取ったんですけどね。作者は今井富世さん。
三つ目の3点句は<紫陽花や〜>。中七と下五が意味深な口語ですが、それと紫陽花との取り合わせはどうですかね? 紫陽花は七変化ともいうように心変わりといった心の移ろいや不確かさを意味することが多い花なので、素知らぬふりはできないという心情とはむしろうらはら。たまたま紫陽花があちらこちらにたくさん咲いていたとしても、もっと適切な季語がほしいところです。作者は相蘇清太郎さん。
次点2点句はふたつ。最初の<飛魚とんで〜>の、飛魚は「あご」と読みます。当地だけの呼称かと思っていたのですが、そうではなくて日本海側から九州にかけてふつうにそう呼ばれているとのこと。飛魚は100m以上も滑空するそうなので(大型の飛魚だと600mとも)、水平線とはいわずともかなり遠くまで見ながら空をとんでいることになります。水平線の先まで、といった表現はよくありますが、それでは常套的すぎるので、あえて水平線の「裏」とすることで多義的な世界を出しています。ただ最後の「見ゆ」は文語文法的には誤っているのではという意見も強くありました。作者は私です。
ふたつめの2点句<離岸堤〜>ですが、五月に対する一般的な向日的イメージと、そこまではいけないという諦観や悔悟の想いとは、やはり合わないと思うのですが。離岸堤というやや特異なものをもってきただけに、よけいそんな気がします。事実として五月だったのかもしれませんが、第三者たる読者にはそういった事情はまったくわかりませんから。作者は南悠一さん。
1点句の<渓谷を〜>は、青嵐が渓谷という大きなものを攫うということで、雄大といえばたしかに雄大ですが、観念が先走ってしまっていて実がともなわないと思います。むろん文学ですから現実にはありえないことでもなんでも表現していっこうにかまわないのですが、すくなくともその世界の中ではリアリティがないといけないでしょう。表記的には「攫ふごとくの」ではなくて「攫うがごとく」ですね。作者は大場昭子さん。
1句目の<じゃがいもの〜>は点が入りませんでした。カボチャではなくジャガイモですが、どうしたってシンデレラのようなおとぎ話を連想してしまいます。その先がないので、読者としてはちょっと、「それだけ?」ですかね。作者は伊藤志郎さん。
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さて第二幕です。こちらは点がわりあい収斂しました。
3 風走る風また風や青芒
1 立尿スミレ紫ちょいと除け
1 園の声大紫陽花を超えて来る
6 にんげんの着ぐるみをきて極暑
3 十薬の真すぐの蕊無口なり
0 七月の空の青さを憶えてる
0 知命なり夏三陸の朋の死知る
最高点は6点の<にんげんの〜>です。このところ35℃をこえるような猛暑が日がありますが、着ぐるみなど着ていたらそれこそ炎熱地獄でしょう。着ぐるみを着ているのはもちろん人間自身。だからこそよけい暑いのでしょうし、着ぐるみは着ぐるみそのもの以外の、人間がまとっている諸々のもの=面子・見栄・建前・沽券・嘘・作為等をも意味しています。作者は私です。
次点3点句はふたつ。初めの<風走る〜>は吹き抜ける強い風とそれに大きく揺れるまだ青い芒のようすがよくわかります。中七が「風また風や」と、上五と併せて三重にたたみかけているのですが、効果的ともいえますし、逆にそれで言葉を消費しきってしまわず、具体的な景を入れればもっとイメージが鮮明になるのでは、という意見もありました。私も取った句ですが、たしかにそうかもしれません。リフレーンはうまく使わないと安直・安易とのそしりをまぬがれかねませんね。作者は伊藤志郎さん。
ふたつめの3点句は<十薬の〜>は、4枚の総包片が白く目立つのと、そこから雄しべと雌しべのみからなる淡黄色の花穂がまっすぐに上に突き出ている様子は印象的。とはいえ派手なイメージはなく、日陰や半日陰に咲くことが多いことから「無口なり」ととらえた点はいいと思います。しかしこのままでは「無口なり」がすこし唐突な感じもしますので、いっそのこと「蕊真すぐなり無口なり」と強く言い切るという手もありそうです。作者は大場昭子さん。
1点句の<立尿〜>は「たちいばり」と読みますが、基本的に男性諸氏の所作ですね。草葉の蔭で小用を足そうとしたら足元に紫色のスミレが咲いていたので、それをちょっとよけて放出したという図。よくわかるのですが、やっぱり俗にすぎるでしょうね。作者は今井富世さん。もう一つの1点句<園の声〜>は紫陽花が大紫陽花であることで救われたと思います。紫陽花では当たり前すぎるので。ただ「超えて」は「越えて」か「こえて」でしょう。作者は相蘇清太郎さん。
<七月の〜>は第一幕の<離岸堤〜>の句と同様に、なぜそれが七月なのか(五月なのか)、読者には見当がつかないのでスルーされてしまいますね。青空のイメージにそぐわないような月をもってくれば、そこでひっかかってくれるんでしょうが。作者は南悠一さん。
<知命なり〜>の句はやはり第一幕の<暗闇と〜>と同じく「夏+三陸」(夏+木霊)がどうも私は釈然としません。例えば秋の季語と通常されている月に「冬の月」として冬期の季語として使うのはわかるのですが、なんでもかんでも夏を付ければ夏の季語となるというものではないでしょう。季語を絶対視するつもりはありませんが、ある言葉が季語とされたことにはやはりそれだけの経緯や理由はあるわけで、それを尊重はしたいと私は考えています。作者は齋藤豊司さん。
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今回も参加者が7名と比較的少なそうだということで、前回と同様に、作句するうえで参考になりそうな句を3句、事前に私が選んでおいて当日の句会がひととおり終わった後にそれを紹介し、皆さんに観賞してもらいました。
土よりもすこしあかるく雉あゆむ 川嶋一美
上のとんぼ下のとんぼと入れかはる 上田真治
夏蝶の踏みたる花のしづみけり 村上鞆彦
いずれも比較的若い俳人で、挙句も新しい句です。いちおうは客観的な写生の句ですが、たいへん微細なところをついています。川嶋さんの<土よりも〜>は、一見したところ茶褐色の雉の体色が、樹下薮下の地面の色よりもわずかに明るいということを詠んでいるだけのようですが、しかしそれだけではないでしょう。走っているのではなく歩んでいる、しかも明るいということは雉が平穏な状態にあり、生気にあふれていることがうかがえます。雉は人里に近い林間に棲息しているので、人が安全圏より近づくといきなり遁走するので人のほうもびっくりしてしまいますが、そうした出会いではないところの普段のようすを作者は想像している、あるいはひそかに観察していると思われ、雉に対する作者の親しみがわかります。
2句目。上田さんの俳句信条などについては私は意見を異にする面が多いのですが、句はときおりはっとするような鋭さを持っています。ただし川嶋さんの句と同様に、表面的にはたわいのないありふれた光景を詠んでいるように思われがちなので注意が必要です。この<上のとんぼ〜>も上下が入れ替わると表することで、空一杯に広がる無数のトンボが想起できます。私の子供の頃にはそれこそしごくありふれた光景だったのですが、今はそれほどの景にはまずお目にかかることができません。トンボは空中浮遊して遊んでいるのではなく、蚊などの小さな虫を補食するために飛んでいるので、餌を見つけるとすかさず位置をかえて寄っていきます。つまり実はけっしてのどかな景ではなく厳しい生存競争のうちにあるわけですね。
村上さんの<夏蝶の〜>はこれまたじつにみごとな句です。夏蝶ですから揚羽蝶などの大型の蝶を俳句では意味するのですが、それでも通常は蝶の重さ=体重などを意識することはありません。それを詠んだ句にも出会ったことは私はありません。けれどもどんな小さな生き物にも重さはとうぜんあるわけで、そのことを「踏む」「沈む」という言葉で的確に表現しています。蝶が花に止まって、触れてといった句ならいやというほど目にしますが、踏んでとは驚くべき発見です。
以上3句ともまさしく「細部に神は宿る」というフレーズが口をついて出るような佳句です。「新しい句」を標榜するときに、とかくスタイルの新奇さや一般的とはいいがたい変わった語句が用いられる傾向があります。たしかにそれもひとつの方法でしょうが、半面非常に安直な手法ともいえます。定型のスタイルとごくふつうの言葉でも、じゅんぶんに「新しい句」を成すことができることを上の3句は実証しています。
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