里山

里山が近年、たいへん脚光をあびています。多様な自然環境がありさまざまな生物が生息している楽園といったイメージですが、私はそれにはすこし疑問をいだいています。

まず人手が入る前のその地域の自然がどういうものでありどのような生物が生息していたのかのデータがありません。みななんとなく「何々だったんじゃなかろうか」と安易な憶測でものを言っているだけだし、またその多くは現在の里山にくらべ単調で生物種も少ないという負のイメージに最初からおおわれています。単純貧相な自然環境が人手が入ることによってこれだけ豊かになった。だから人手を投入し続けなければ荒廃してしまうというのです。

しかしもともと自然は永劫不変ではありません。地震や噴火、台風や豪雨や旱魃、洪水や山崩れなど、程度の差はあれいつも変化し続けています。それこそ人間の営みなどあっという間に微塵に帰してしまうほどのはげしい変化も珍しくありません。したがってそうした自然の変移や天変地異のつどにそれまでのそれなりに「安定」していた環境は変わり生態系が変わります。ある種の生物は激減または絶滅してしまうかもしれませんが、かわりにそれまではその地域にいなかった生物が他から進出してくることもあるでしょう。人にとってはまったく災厄でしかない大地の急激な変貌も、生物にしてみればリセットの絶好の機会といえます。

自然環境の変化が、たとえば大陸の移動(プレートテクトニクス)や氷河期の到来といった巨大な変化であれば、もともとはひとつの種であった生物が長い年月の間に別の種へと進化・分化するきっかけともなるでしょう。地球上にどれくらいの生物種がいるのか定かではありませんが、少なめにみても数百万種、多目にみる学者では1億種を超えるだろうといいます。地球全体としてみればそれくらい多種多様な生物がいる、きわめて豊かな星といえます。

しかしもしその観測エリアをある地域の10km四方とか1km四方とかに限定するなら、動植物や昆虫などの種類は単位当たりの面積でくらべれば、もしかしたら里山などよりも少ないかもしれません。何千年、何万年と顕著な自然の変化が起こらず人為的介入がほとんどないままずっと広葉樹林であるとか、河川の氾濫原であるとか、大草原であるとかといった場合、その自然環境に最も適した種が優占しそうでない種は衰弱し撤退するであろうことは充分考えられます。しかしそのことをもってその地域が単純で貧相な生態系であるといっていいでしょうか。

一方、里山の場合は何百年何千年にわたって基本的な姿が変わらないままであることはまずないでしょう。人間の都合で畑になり水田になり採草地になり、薪炭林になり木材用林になり、道路になり家屋が立ち並び、果ては都市化することもあると思います。河川も自然河川だけでなく人工の用・排水路が縦横にめぐらされ溜池も築かれるでしょう(そしてすべての文明がそうであったようにいずれ都市や集落は衰退し人間のほとんどいない状態にまたもどります)。

それほど規模の大きくない集落とその周辺の里山だけを観察すれば、樹木の生い茂ったところや草地のところ、湿った土地や乾いた土地、陽のよくあたるところと日陰がちなところ、傾斜地と平坦地、踏圧にさらされるところとそうでないところなど、たしかに自然環境はさまざまです。しかも数年から数十年程度でめまぐるしく変化します。したがって生物もそのさまざまな自然環境と人為的撹乱に応じてさまざまな種が生息することになります。1種あたりの個体数は少ないかわりにやたらに種類だけは多いというケースもあるかもしれません。しかしそのことをもってすぐさま「豊かな自然」ととらえていいでしょうか。それはあまりにも単純で皮相的な自然観ではありませんか。

豊かな自然、多様な生物相といってもどのような時間で、またどのような空間で考えるかによって違います。人間的なごく短い時間と「里」といったごく狭い空間でとらえて、豊かな自然と生態系であるとしてもそれはその限りにおいてです。結局人間が見て美しいと感じ、農耕や生活に利用しやすい自然が「よい自然」とみなされているだけであり、人間の目にはあまり美しいとは思われず、人間の営為には都合がわるい自然が「よくない自然」「荒れ地」とみなされているだけの話です。

もちろん現実にある各地の里山を否定するものではありません。しかし過剰な思い入れ、幻想はなくすべきでしょう。まして「人間が不断に手をかけ続けなければ自然は壊れてしまう」などというのは、はっきりいって思い上がりです。だいじょうぶ、この日本列島に人間が住み始める前からたくさんの動植物は生きていましたし、人間が消え去っても彼らはきっとしたたかに生き残っていくと思います。

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