かの茸を隠し持てり山笑う
「山笑う」は俳句で春の季語となっている。同様に「山滴る」が夏、「山装う」が秋、「山眠る」が冬の季語。上の写真は4月初めの頃の鳥海山で、まだかなり雪が残っているが、5月下旬の現在は緑色をましてさまざまな花も咲き、まさに笑っているような雰囲気ではある。/いま緑色と記したが、実際には春先の新しい葉は色合いはじつにさまざまで、濃緑・淡緑・黄色・白色、それに秋の紅葉かと見間違えるような橙色や赤系の若葉も珍しくはない。したがって「新緑」という言葉は概念的な言葉でありイメージとしての言葉であって、事実そのものとはかなり乖離している。しかし新緑と言われ書かれれば、ほとんどの場合若々しい緑色を脳裡に思い浮かべるのがふつうで、真っ先に白色や赤色を想うことは稀だろう。/世界を認識するには言葉が必要であるが、逆に言葉が邪魔になって世界をつぶさに正確にとらえることを阻害してしまうことがある。いわば言葉がサングラスや偏光グラスや色眼鏡となってしまうわけだ。俳句の季語などはその典型で、季語ひとつを出すことでその背後の最大公約数的なイメージを表出できるのでたいへん便利ではあるが、その反作用や弊害もあることは常に肝に命じておかないといけない。
さくらさくら桜ばかりでなにも見えぬ
山間部のサクラ(オオヤマザクラやミネザクラナ等)は別としても、平地のサクラの開花はだいぶ前に終わり、それにともない花見や観桜会というような一種の狂想状態も潮をひいてしまった。私はソメイヨシノに代表されるような園芸的なサクラは嫌いとまでは言わないが、とりたてての興味関心もない。春先は草本木本のじつに多くの種類の花が咲き乱れるのであって、サクラはわたしにとっては単なる「ワン-ノブ-ゼム」以上のものではない。よくいわれる「俳句では花といえばサクラのことだ」という約束事にも違和感がある。「花」とだけいわないでもっと具体的に表現したほうがいいといつも感じている。
春眠より目覚めおれば春になっており
たんに春だからということだけではないが、やたらと眠い。木工の仕事も基本的には体力勝負の力仕事であり、それに年齢も加わって、昼寝でもしないと身体がもたない感じだ。昼寝してそのままずっと寝入ってしまうおそれもあるので、必ず枕元に目覚まし時計をセットしておくのだが、アラームが鳴ってもストップを押してまた眠ってしまうこともある。ときには自分がストップを押した記憶さえまったくなくて、気がついたら2時間くらい経っていたということも。/冬の時期の昼寝は、石油ストーブを点けたままでは危ないのでそれはいったん消して、かわりに家具運送梱包用の厚手のキルトを2枚床に敷き、毛布を2〜3枚かけて寝る。もちろん衣類はフルに着たままである。室内気温が3℃以下くらいになるとそれでも厳しいので、足元に湯たんぽを置くこともある。/3年半ばかり前に木造47畳対応という大型の石油ストーブを導入したが、天板の下で常に排熱用ファンが回っていて天板は熱くならないタイプのため、お湯がわかせない。したがってお湯わかし用に非電源の昔ながらの小型石油ストーブにも着火してその上に大きめの笛吹きケトルを置き、材木の仕上げ削りの前の水引や雑巾洗い、そして上記の湯たんぽ用に湯をいつもわかすようにしている。