コーヒーブレーク 23 「羽化」

 

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わが影をひと足ずつの踏絵かな

まさかとは思ったが「踏絵」または「絵踏」は歳時記によるとなんと春の季語だった。徳川時代の宗門改め(詮議)で春先に多く行われたからだそうだが、他の季節でも当然ながら行われたであろうし、春と踏絵とを強く結びつけなければならない合理的な理由はありそうにもない。したがって私は無視することにする。/また踏絵の話を見聞きするたびに思うのは、マリアやキリストのレリーフを踏むか踏まないかは、その人の信仰心とはなんの関係もなかろうにということである。単なる物だよね、それは。しかも幕府側が用意した愚劣・幼稚な仕掛けにやすやすと乗っかってしまい命まで失ってしまっては元も子もない。ほんとうに信仰心があるなら権力の差し出した偶像など笑って蹴散らしてしまえばよい。そのことを他のまともな信者や宗教家は非難しないだろうし、ましてもし事実、神がいるとするならそういうくだらない表面的なことに目くじらを立てることはけっしてあるまいと思うのだが、ちがうだろうか?

一族郎党ひきつれ浮いてこい

「浮いてこい」または「浮人形」は夏の季語である。つまり浮沈子(ふうちんし)の一種で、比重1.0よりわずかに軽い玩具をお風呂の底に沈め、ゆらゆらと浮かんでくるさまを楽しむもの。したがって形としては動物や乗り物などが多く、そのわずかな比重差が損なわれないように陶器やプラスチックや金属の外装の中に空気を密封するのがふつうである。しかし浮人形はともかく、かけ声である「浮いてこい」そのものがそのまま季語だとは、俳句になじんでいる方以外にはちょっと想像がつかないだろう。/あ、いま思ったのだが、浮人形は基本的には水面に対してかろうじてであれ浮くことが大前提で、そのイメージを通常は崩さないような形が選択されている。つまりアヒルであったり潜水艦であったり、である。しかしそうであるなら、あえて本来は水底に沈んでしかるべきものを浮人形に仕立てるのもおもしろいかも。

蝉の穴極暑の棒の曲がり入る

はるか昔になってしまうが、小学生の頃はよく蝉の羽化前の幼虫を捕まえたものだ。近所の神社境内に夕方出かけて、地面にあいている新しい穴をさがして、そこに麦わらのような細い草の茎を差し込んだり、水を注ぎ込んだりする。もしその穴にまだ幼虫が潜んでいるのなら、草をつかんだ幼虫を草といっしょにそっと引き上げるか、浸水におどろいた幼虫が穴の上にはい出してくるのを気長に待つのである。比較的名の通った神社の境内ならば、地面がきれいに掃き清められているのが常なので、穴を見つけることも新旧を判別することもたやすいからである。/捕まえた幼虫の一部は虫かごに入れて家に持ち帰り、蚊帳にくっつけておけば夜半に羽化の見物ができるのだった。

 

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