花いかだ花筏を圧し沈めつつ
[はないかだ はないかだを おししずめつつ]どうしてみな桜ばかりに注目するのかわからない。とくに今の時期は桜以外にも数えきれないほどたくさんの草木の花が咲くのだから、そういったものにももっと興味関心を持ってもらいたいという思いがある。桜よりも、あるいはすくなくとも桜と同じくらいに何々がいちばん好き、という人がたくさんいても不思議ではないのになあ。/結局のところ多くの人にとっては自然の移り変わりとそれを端的に表す野山の植物の開花はさして興味もないということなのだろう。せいぜい音楽や本や衣料品やテレビドラマなどが流行に乗って、あるいは乗せられて一色に染まっていくように、桜色にすべてが染まっていくだけである。
ラテン語の辞書にはさみし種袋
[らてんごの じしょにはさみし たねぶくろ]生物の学名、すなわち世界共通の命名はラテン語で行われる。二名法といって、属名+種小名という形式で記載されるが、同じものは二つとないので、学名で呼ばれ書かれるかぎりどこの国や地域であってもそれが指し示す生き物は同一のものである。そうでないと学術的な意思疎通や論議は不可能であって、これはそういった必要から生まれた偉大な発明であるといえるであろう。/ラテン語の発音は日本語でローマ字読みをするのとほぼ同じなので、意味の理解はともかくなんとか発音することはできそれをカタカナで表記することができる。これも偶然とはいえ、たいへんありがたいことである。
家系図の永遠に濡れ目借時
[かけいずの えいえんにぬれ めかりどき]家族の血のつながりを一覧にしたものが家系図である。自分の親兄弟が誰で、そのまた親兄弟の親兄弟は誰、というわけだが、仮に兄弟姉妹が各世代で2〜3人ずつだったとしてもわずか数世代を追うだけで膨大な人数になってしまう。とても全部は書ききれない。したがって通常は親の親の親というふうに恣意的に対象を限っていくのだが、それでも数段階昔になれば一般庶民には皆目不明というのがふつうである。記録が残っているとは限らず、その残っている記録も正確であるかどうかはわからないからである。/実際私自身のことでいえば親の親のあたりまではなんとかわかるが、その先は不明で、戸籍でも丹念に調べればもう一段階くらいまではわかるかもしれないが、それより先は不可能であろう。もっとも祖先が誰であれ、そのことが直接いまの自分とはほとんど無関係だと思うので、わざわざ調べる気もないが。