青猫句会 2017.2.15

 

恒例の青猫句会、二月は15日に行われました。場所は酒田駅または本間美術館に近い「アングラーズカフェ」を借切で、午後6時半〜9時です。今回の参加者=投句者は、相蘇清太郎・今井富世・大江進・大場昭子・齋藤豊司・佐藤歌音・佐藤や志夫(やは弓+爾)・南悠一の8名です。

夜の句会のためこの時期はいつも雪の心配があるのですが、今年はとくに問題なく参集できました。投句はいつものように事前に2句を無記名で1週間前までに送っておきます。本番では清記された2枚の句群からおのおの2句ずつ選句します。投句の制約は「おおむね当季の季語を入れる」という以外にはいっさいありません。もちろん五七五という定型や旧かなでなくともかまいません。青猫句会では其の一と其の二の二部にわけて選句と披講・講評・意見交換などを行います。
では其の一から。

3 春星の瞬きそれはいもうと
1 箱橇にたらふく詰みて阿婆来たる
1 きさらぎは寄る辺なき夜と対話す
2 吊し雛煎餅が混じる草加の地
0 箱橇や雪の降る町なつかしき
2 障子戸にまばゆき光戸惑いて
2 大寒や血ぶくれの人体であり
5 白豆腐少女のように笑ひけり

最高得点は最後の<白豆腐少女のように笑ひけり>です。豆腐だけでは季語にならないのはとりあえず置いておくとしてですが、絹豆腐のような白く艶やかな豆腐が少女のようだという比喩や、料理の前に皿にでも置かれた豆腐がかすかに揺れているようすを、少女が笑っているようだとしたのは大変よくわかります。イメージは鮮明です。私も取りました。ただし予定調和的といえなくもありません。作者は今井富世さん。

次点3点句は<春星の瞬きそれはいもうと>ですが、春星には「しゅんせい」とルビが付されています。そのことによって音調はとてもよくなりました。格調がありますね。ただ下七で「それはいもうと」としてしまうと、作者が先回りして答えを出してしまったきらいがあります。作者の佐藤歌音さんによると、ご自分が5歳のときに3歳で病死された妹さんを詠んだとのことですが、そういう実際の事情を知るとなるほどとは思うのですが、そこまで読みを限定しないほうがいいかな。

2点句は3句ありました。最初の<吊し雛煎餅が混じる草加の地>は一読して草加煎餅のことであるとわかります。いま全国的に吊し雛がはやっているようですが、その土地ごとに吊るすものが異なるのでしょう。しかしまさか本物の煎餅が吊るされているとは予想できませんでした。まあ、挨拶句としてユーモアを交えた句はありでしょう。作者は相蘇清太郎さん。

次の2点句<障子戸にまばゆき光戸惑いて>は私も取りました。障子は冬の季語ですが、まだまだ寒いながらも障子を透過する光はすこしずつ春めいてきた感じがします。そしてその陽光はすんなりと室内に入ってくるのではなく、いったん障子紙のところでたちどまり戸惑いながらおずおずと入ってくるのだという感覚がじつにいいですね。暗い部屋から障子を眺めると、障子自体がほのかに発光しそこで光が浮いているような感じがしますからね。作者は齋藤豊司さん。

3つ目の2点句は<大寒や血ぶくれの人体であり>は中五の「血ぶくれ」が問題。造語ですが、とても寒いときだからこそ体を巡る血潮の熱さをよけいに強く感じるということで、もちろん冬の季語でもある「着膨れ」にひっかけているわけです。作者は私です。

箱橇(はこぞり)の句がたまたま2句ありますが、作者の弁によればどちらも実景ではあるようです。ただその事実を知る由もない読者には、単に昔の郷愁としか受け止めてもらえないと思います。どうせ句を作るなら「いまの句」を作りたいものだと私は考えます。むろん郷愁・追憶の句を否定するものではありませんが。

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其の二です。

0 雪紋のガラス戸張り付き息吹きて
3 大寒や猫でも抱いて眠ろうか
3 豆打ちてここにも鬼の独りをり
3 冬三日月四つ足の目の二二が四
3 春泥に真水の真青まじり入る
3 母と語るひとときありて魚は氷に
0 春立ちて豆まきの豆食したる
1 雪解や骸ひとつの出でにけり

珍しく最高点の3点句が5句も並びました。最初の<大寒や猫でも抱いて眠ろうか>ですが、いっしょに布団で寝たり抱かれるのをいやがる猫もたまにいるとはいえ(私の家のアルがそれです)、一般的にいえば「猫を抱いて」ではあまりにも当たり前なのではないでしょうか。わかりすぎる句であり共感を呼ぶのは確かですが、抱く対象をもっと他のもの、意外性のあるようなものにしたいところです。作者は大場昭子さん。

3点句の2句目<豆打ちてここにも鬼の独りをり>は節分のときの家庭行事としての豆まきを詠んでいます。「福は内、鬼は外」と唱えながら豆を打つものの、鬼は外だけでなく自分の中にも存在するわけで、それが「ここにも鬼の独りをり」となるのはよくわかります。私もいちおうは取りました。しかしことさらに「独り」とすると過剰に意味を付与してしまうのではないか。ふつうに「一人」「ひとり」としたほうがむしろ膨らみが出ると思います。作者は今井富世さん。

3つ目の3点句<冬三日月四つ足の目の二二が四>は、これは三四二二四と数字をならべて遊んでいます。しかしながら細い月が出ているだけの暗くて寒い冬の夜だからこそタヌキやキツネやアナグマなどの獣の目がひかり輝くという景は美しいと思います。作者は私です。

4つ目の3点句<春泥に真水の真青まじり入る>は、泥ながらもよく見ればその上を流れる水は必ずしもいつも濁っているわけではなく、ときに意外なほど澄んでいることがあります。そのようすを詠んでいるのですが、作者(=南悠一さん)はその水に青空が映っていたことも詠み込みたかったようです。しかしやはりそれは読者にはうまく伝わらないでしょうし、真水の真青=まみずのまさおという韻をふんだ音調がむしろくどく感じられるかもしれません。「真水の青の」ではいかがでしょうか。

最後の3点句<母と語るひとときありて魚は氷に>は「魚は氷に(うおはひに)」が春の季語であることを知らないといけません。実際、氷の字をみて冬と誤読した人がいます。春になってきて氷もゆるみ、それまでは水底でじっとしていた魚も動きが活発になり、勢い余って氷の上に上がってしまうこともあるか、という早春の景を意味する季語です。使い方の難しい季語ですが。したがって「母と語る」はおのずと亡くなった母上のことであろうととるのが自然でしょう。佳句です。作者は佐藤歌音さん。

 

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