シテ句会 2015.9.9

 

恒例のシテ句会です。『シテ』は現代詩や俳句・短歌などの短詩形文学の作品発表と批評を目的とする同人誌ですが、句会も並行して行っています。原則として奇数月の第三水曜日午後6時半から、酒田駅近くの「アングラーズ・カフェ」での開催ですが、今回は都合により1週間早く、9月9日に行いました。

句会のメンバーはシテの同人と重なる人(有志)と、それとは別に外部から句会のみに参加される人とになりますが、今回は相蘇清太郎・伊藤志郎・今井富世・大江進・大場昭子・齋藤豊司・南悠一の7名でした。事前に2句を無記名で投句し、当日は清記された2枚の句群(第一幕・第二幕)からおのおのが2句ずつ取ります。その句を取った弁、取らなかった弁を一通り述べたあと初めて作者名が明かされます。これは他の句会でも一般的なスタイルですが、先入観を排し、忌憚のない意見を出してもらうための工夫です。

以下の記述は句会の主宰をつとめる私=大江進からみての講評です。辛口もありますがご容赦を。また異論・反論も大歓迎です。では第一幕から。

1  秋潮の頃のさびしさ日本海
4  廃屋にひかりの束や立葵
1  子ら水掛け碑お水をください
2  樹々は千手観音夕日に映えて
2  川泥鰌月を見上げる波紋かな
2  あやまちはくりかえしません心太
2  黄昏が記憶を盗む暮れぬ秋

最高点4点句は<廃屋に〜>です。私も取りましたが、かなりうらぶれた無人家で、屋根とか壁にもあちこち穴が開いているのかもしれません。そこから漏れてくる夏の日差しがスポットライトのように見えています。立葵(タチアオイ)は初夏から夏にかけての花ですが、背丈は2mくらいまでになる丈夫な植物。ただ野生状態の自然植生としての立葵はみつかっておらず、いずれも人家の庭などに人が植えた花であり、そのことがよけい廃屋のわびしさをさそうようです。廃屋の暗さや不気味さなどはよく俳句に詠まれますが、反転はあるにしても廃屋の明るさを詠んだ句はほかには思い当たりません。作者は南悠一さん。

次点2点句が後方に4つ並びました。4句目の、<樹々は千手観音〜>はこれも私も取りました。大きなケヤキなどの樹が夕陽にシルエットとなって浮かんでいるさまを初めは連想したのですが、下五が「夕日に映えて」ですから、見る向きが逆ですかね。夕陽に照らされている夏季の大木だとすると、むしろ葉がこんもりと繁っていて枝振りはよくみえないので、千手観音の比喩はすこし無理があるような気もしてきました。しかし景としてはいいと思うので、間延びした感のある下五を再考したいところです。作者は相蘇清太郎さん。

次の<川泥鰌〜>は音をそろえるのに無理やり泥鰌に川を点けたようで、私はかなり疑問です。カワドジョウという魚はいませんし、下五に波紋とあるので川はさらに余計な感があります。また「見上げる」は「見上げし」とすれば、泥鰌の姿が見えなくなっても水面にはなお波紋が広がっているようすが想われ、時間経過とともに景にもふくらみが出るのではないでしょうか。作者は今井富世さんです。

次の、<あやまちは〜>は私の句です。「あやまちはくりかえしません」はもちろん原爆死没者慰霊碑の碑文「過ちは繰り返しませぬから」からきています。また三橋敏雄に有名な句「あやまちはくりかへします秋の暮」があり、それに対する反歌でもあります。そのへんの背景をふまえないとこの句の理解はむずかしいかも、です。下五があのにょろにょろとした心太(ところてん)ですから、「あやまちは二度とくりかえさないぞ」などといっても、調子のいい、単なる口からでまかせの言葉なんじゃないのかという皮肉・風刺でもあります。「心太式に〜」という常套句もありますしね。

最後の2点句は<黄昏が〜>ですが、一読二読してもよくわかりませんでした。黄昏が記憶を盗むとははたしてどういう意味でしょうか? しかも下五が「秋の暮」や「暮れの秋」ではないので、よけいに混乱してしまいます。それに中の「むnu」と下の「ぬmu」と続くので語調もよくありません。作者は伊藤志郎さん。

1点句がふたつ。<秋潮の〜>は「頃」は不要でしょうし「さびしさ」は秋潮とやはり付き過ぎ。で最後が日本海では演歌になってしまいます。作者は大場昭子さん。<子ら水掛け〜>はぎくしゃくした表現で、どこで切れてどの言葉がどれにかかるのかも判然としません。「水掛け」+「お水を」では馬から落馬した」の類いになってしまいます。作者は今井富世さん。

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ここまでで約1時間。参加者が少ないと得点の多少にかかわらず全部の句に言及できるよさはありますが、問題句や下手な句も容赦なく批評にさらされるので、作者にとっては厳しいといえば厳しいですね。小休止のあと第二幕です。

0  冷酒に世寒添い寝のひとり宿
2  鬼灯や鬼に摘まれず土に臥し
4  大花野夜には星座もくわわりぬ
2  ましら酒ことりことりと夜の更くる
2  泣き虫の鳴いている夏の切り岸
2  かさかさと虫を追う猫十三夜
2  山羊の眼のごと美術館のガラス窓

最高点4点句は3句目<大花野〜>です。夏の季語「花畑」に対して秋の季語「花野」ですが、さらに「大花野」ですから見通しのよい広大な土地にたくさんの花が咲き乱れているようすが目に浮かびます。やがて夜になると澄み渡った秋の空のために星の姿もよく見えます。星月夜のような明るさに、地の花も点々と浮かび上がって見えているかもしれません。天と地との饗宴ですね。ただしとてもよくわかる景観だけに類句はあるでしょうね。作者は私です。

次点2点句は、第一幕と同じように多く5句にもおよびました。つまり点がずいぶんとばらけたわけです。初めの<鬼灯や〜>は鬼灯(ホオズキ)の実が結局だれにも摘まれることもなく(片付けられることもなく?)落下してしまったということですが、「鬼灯」「鬼に」と並ぶのはやや窮屈かつ付き過ぎ。また鬼が点した灯のようだという意味での鬼灯なのでしょうから、技巧的すぎるのではとする批評もありました。作者は伊藤志郎さん。

4句目<ましら酒〜>は猿酒の意で、野猿が樹のうろなどに貯めておいた木の実がいつの間にか醗酵して酒と化したという俗信にちなんだもの。「ことりことりと」いうオノマトペは醗酵するときの音か、あるいは木の実などが落ちる音がかすかに響いているのでしょうか。いずれにしてもこの中七のオノマトペはたいへんよく効いています。作者は大場昭子さん。

次の2点句は<泣き虫の〜>ですが、中七が「鳴いている」とあるので、冒頭で泣いているのが子供なのか虫や鳥なのか、それとも両方なのかいまいち判読できませんが、下五の「夏の切り岸」はいいですね。「な」音で3連続韻をふんでもいます。中七を「ないている」として、読者に「泣いている」「鳴いている「啼いている」「哭いている」と自由に感じてもらうという手もありそうです。作者は南悠一さん。この句と前の句は私も取りました。

次の2点句<かさかさと〜>はわが家の室内飼いの猫がフローリングの床を歩くときにたてるかすかな足音(後ろ脚の爪が床に当たる音)を想ったのですが、戸外でもそろそろ枯葉などが落ちておりかさかさと音がしますね。十五夜ではなく十三夜であるところがいいです。作者は今井富世さん。

最後の2点句<山羊の眼のごと〜>は、ヤギの瞳は暗いところでは横長になります。ネコの瞳が縦に細くなるのとは対照的ですが、そのことをぱっと想いうかべることができないとこの句はわかりにくいでしょうね。美術館の窓は作品の日焼けを防ぐために小さめなことが多いのですが、この句の場合は横長の細い小さな窓だったのでしょうか。しかし、それでもまだ何かが足りない気がします。美術館を除けて別の言葉を入れたらどうでしょうかね。作者は相蘇清太郎さん。

1句目の<冷酒に〜>は「世寒」(夜寒?)「添い寝」「ひとり宿」ですから、これではまったく演歌です。作者は齋藤豊司さん。

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さて今回も最後に作句の参考になりそうな句を、私が三句事前に選んでおいて皆さんに観賞していてだきました。テーマは「ただごとのような」です。

三つ食へば葉三辺や桜餅    高浜虚子
草餅に鶯餅の粉がつく     岸本尚毅
海鼠切りもとの形に寄せてある 小原啄葉

虚子の句は、わざわざそんな些末なことを俳句にすること自体がふつうではないのですが、なぜか妙に惹かれるものがあります。それはきっと食べたものが桜餅であり、残されたものがあの塩漬けされたオオシマザクラの葉だからこそ。クマリンのいい香りがただよってきそうです。なお桜餅の葉を食べるor食べないを、嗜好の差ではなくマナーの問題として大真面目に論じている人もいるようですが、ばかばかしいかぎりです。

岸本直毅は名の通った中堅俳人です。が、伝統派ながらなかなかのくせもので、草餅対鶯餅をエサに、微妙な人間心理を詠んでいるかのようです。「そんなに寄ってこないでよ。服が汚れるじゃない」「いいだろ、そんなこと気にすんなよ」といったやりとりが聞こえてきそうですね。

小原啄葉の海鼠の句は、じつは作句をはじめた十数年前に出あって以来、いまもって私の感銘句の筆頭のひとつです。なんでもなく詠んでいるようで、じつはよく読むと非情や残酷・虚無をこれ以上にはないくらいに的確に表現していると感じます。

三句とも、ただごとと言えばそのとおりただごとにすぎないのですが、素材と表現とを吟味することで読み手に対して、大きなもの深いものを見させる強さを内包している句ともいえます。そのことは試しに上の句に、桜餅や草餅・鶯餅・海鼠ではない何か別の食べ物をあてがってみれば明らかでしょう。

 

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