空深く降りてゆけり登山道
何十年も山登りをしているが、よく晴れた日や逆に霧が濃い日などは、登るに連れてだんだんと地上を離れて空に潜り込んでいくという思いを強くすることがある。ことに単独行で、他の登山者もまず皆無といっていいコースや山ならなおさらである。/あるとき登山などほとんど未体験といっていい人と、私が山の話をしていて「下界に近づいてきたら……」と言ったとたんに笑われたことがあった。山だって下界だろうというわけである。下界を天上の世界と対となる現実の世界と考えるのであればまったくその通りなのだが、登山、とりわけ娯楽的なハイキングなどではないいくらか過酷な山登りをしていると、普段の現実世界からの遊離隔絶という思いが自然にわいてくる。それは感覚的な話なので、わかる人にはすぐにわかり、わからない人にはいくら説明してもついにわからないかもしれない。
鳥海山月山の身震いして十一月
十一月ともなれば高い山は完全に冬である。11月から6月くらいまでは氷雪に閉ざされている世界で、冬以外の期間は4か月ほどしかない。春らしい春の季節は高山にはほとんどなく、冬からいきなり夏となって、夏から短い秋を経てまたすぐに冬にもどるという感じである。山肌一面が雪と氷に封印される前に、北西の強い風が吹き荒れて灌木や草の枯葉を一掃する。
銀漢の死にたる星もひきつれし
銀漢は銀河・天の川のこと。一般にはあまりなじみがないが、俳句では普通に使われる言葉だ。漢はまた男らしい男という意味でもある。悪漢とか好漢とか(良きにつけ悪しきにつけ)。もっとも「男らしい」とか「女らしい」とかの言い方や見方はできるだけ避けたいとは思う。それは結局のところ根拠のない固定観念であり、容易に偏見と差別意識に転じてしまうからだ。/この句は9月17日のシテ句会に出した句で、そのときの句会の様子(講評)は当ブログ9月30日の記事として掲載。それにも書いたことだが、星にも生死があり、いまわれわれが見ている星のうちのあるものは実際にはもう消滅しているかもしれない。なにしろ光速で何万年とか何億年とか離れている星もたくさんあるわけだから。逆に実際にはいま新しく生まれている星でも、あまりにも遠くにあるせいでわれわれはその存在を感知できていない場合もあるだろう。星空をみあげてのこのような感慨は現代ならではのもの。
(※ 写真は10月中旬、鳥海山の初冠雪から数日後の景観で、頂上=新山と、それを取り巻く外輪山が見えている。)