※※ タイトルの入力が先日来うまくいかないので(ブログソフトのバグ?)、とうぶんの間「タイトルなし」とし、本文冒頭に見出しをすこし大きく付けることで代用とします。

コーヒーブレーク 10 「素顔」

 

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もうすこし地球にいてもいいかしら春の雲

原発からのそれを筆頭として放射性廃棄物の増加が問題となっているが、プルトニウム239のように半減期が24000年と非常に長い核種もあるので、人類にとってほぼ無害といえる状態になるのは約10万年も先のこと。しかしその頃までほんとうに人類が存続しているかどうかは私は危ういと思う。/10万年後の未来ではなく、逆に10万年前の過去において人類はどのような存在であったかといえば、現生人類(新人)のホモ-サピエンスがようやくアフリカの地で旧人のホモ-ネアンデルターレンシス等から進化もしくは枝分かれした頃である。むろん文明といわれるようなものはまだほとんどなにも持っていない。それが1万年前→1千年前→百年前と時代がすすむにつれ、加速度的に文明はすすみ、光明とともに暗愚もいま極みを迎えている。この調子でこの先10万年もヒトが生きながらえることはとうてい不可能だろう。自らの唯一の住処であるこの地球を破壊しつつ人類も終焉する。

海山の素顔のままでおわしけり

自然が牙をむく、自然が怒り狂う、といった言い方や捉え方が嫌いだ。自然は生物ではないので、物理的な現象としてさまざまな様相や変化があるだけである。おだやかで暖かい晴れの日も、極寒の猛吹雪の日も、大地震や噴火や津波や洪水や旱魃でさえもぜんぶ「ほんとうの姿」。あれがいいこれがわるいと感じ思うのは、人間も含む生き物の側の話であって、自然の側にはいっさい関係のない話である。けれども、人間の力ではどうしようもないことがこの世にはあると悟ることは、人間にとって幸いであるだろう。

泣き疲れ眠るものある涅槃かな

涅槃(ねはん)とはサンスクリット語のニルバーナがなまったもの。仏教の用語で、煩悩を消し去って悟りの境地に至ることをさすらしい。で、釈迦が死んでしまったことを入滅と表するのだが、迷いや恐れが滅した状態ということのようだ。しかし要は死んでしまえば迷いもなにもなくなるのは当然で、あの世を信じているのでない限りは当たり前の話だ。/赤ん坊や幼児をみていると、泣くということがこんなにもエネルギーを使うものかと感心することがある(あった)。大きな声で叫ぶようにいつまでも泣く。汗と涙とよだれを垂らしながら延々と泣く。一種のトランス状態に入っているので、へたにあやすとさらに激しく泣く。しかしどんな激しい雨であってもいつかは必ず止むように、泣き声が急に静かになったと思うとくったり寝てしまっているのである。

 

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