シテ句会 2016.6.15

 

毎月開催に変更してから今回で3回目のシテ句会です。第三水曜日の午後6時半〜9時、酒田駅にほど近い「アングラーズ・カフェ」というお店をその時間は借り切って句会を行っています。母体である『シテ』は現代詩・俳句・短歌などの短詩形文学の作品発表と批評を目的とする同人誌で、現在10号まで発行。こちらも年3回発行だったものを今号から季刊(3・6・9・12月発行)にアップしています。

句会への参加は上記のシテ同人から任意、プラス外部から句会のみ参加というかたちですが、相蘇清太郎・あべ小萩・今井富世・大江進・大場昭子・齋藤豊司・佐藤喜和子・土田貴文・南悠一の各氏、ならびに見学の方も含めて10名(うち2名は都合により出句のみ)の出席でした。

事前に無記名で2句投句し、句会当日は清記された句群=其の一・其の二の中からおのおの2句ずつ選句。その句を取った、また取らなかった人もそれぞれ披講を行い、その後にはじめて作者名が明かされます。もちろん作者としての思いや作句の意図なども話すことになります。こうした句会の進め方はおおむね他の句会でも同様で、先入観を排し忌憚のない批評を交わすための古来からの工夫です。

なお得点は、高得点=すぐれた句、ということを必ずしも意味するわけではありません。俳句としての形(五七五や季語)がしっかりできていて、分かりやすく瑕疵のない句に点が入りやすいのは当然です。しかしそれはおうおうにして常識的・常套的な内容であることも多く、「いいんだけどどこかで見たことのある句」になりがちです。むしろ注目するべきは未熟であっても驚きや発見がある新鮮な句です。

以下の記述は当句会の主宰をつとめる私(大江進)からみての講評です。異論反論歓迎です。では其の一から。

2 一日(いちじつ)のはまなすの花や波の音
4 夭折のやまかがし猫の首輪ほど
2 沙羅の花母の記憶の離れゆく
3 渓谷の付録のやうに山躑躅
0 福田パンひとり居の卓衣更え
0 十日ほどいのち燃やしてヒメボタル
2 囃子のせ風折碧しそら童
2 数式の解かれ谷は山吹となす
1 風そよと緋に染まりたる山躑躅

最高点は4点句の<夭折のやまかがし猫の首輪ほど>。ヤマカガシは色合いのすこし派手な蛇ですが、まだ小さいそれの骸が道ばたにでもあったのでしょう。「夭折」「猫の首輪」と言ったことで、自ずとその小さな蛇の大きさや形状・色彩、また小動物に対する愛情と哀惜の念がよくわかるかと思います。作者は私です。

次点3点句は<渓谷の付録のやうに山躑躅>。ヤマツツジの花期は終わってしまいましたが、新緑に赤橙色または朱赤色の花はたいへんきれいで目立ちます。また比較的谷筋のすこし湿ったところに咲いていることが多いので、まさに渓谷のアクセントという感じがします。それを「付録」と表したところが面白いとは思いますし、私も取ったのですが、付録は通常は主役ではない脇役、おまけの意味なので、その点は気になるといえば気になります。作者はあべ小萩さん。

2点句は4句あります。はじめの<一日のはまなすの花や波の音>ですが、ハマナスは咲いて一日で散ってしまう一日花で、儚さを覚えることがあります。そしてやや遠くから波の音が聞こえてくるという状態はそのこととうまく響き合っているとはいえます。しかし海辺に咲くハマナスの説明に終わっているようでもあり、物足りなさがあります。作者は相蘇清太郎さん。

つぎの2点句<沙羅の花母の記憶の離れゆく>は、記憶が「薄れゆく」ではなく「離れゆく」であるところがとてもいいです。亡くなった母への「私」の記憶が希薄になっていくのではなく、この世に対する「母」の側からの記憶・執着・未練といったものが希薄になっていくというのでしょう。視点が通常とは逆になっているわけです。ナツツバキの白く清楚な印象も中・下句によく合っています。秀句です。作者は大場昭子さんですが、最近は新聞の俳句投句欄の巻頭句を重ねているなど大奮闘中です。

3つ目の2点句<囃子のせ風折碧しそら童>は、率直にいって私はまったく読み込むことができませんでした。「風折」は「雪折」の同類かとは思いつつも、ひょっとして季語かしらとか、「そら童」って何? 「青し」ではなくなぜわざわざ「碧し」としているのか、等々。作者の土田貴文さんの説明によれば、祭りの情景のようですが、おそらくほとんどの読者には推測も難しいのではないでしょうか。

最後の2点句<数式の解かれ谷は山吹となす>は、新緑に黄金色のヤマブキの花が群開している景はかなり鮮烈です。車の窓外からかヤマブキの姿がとびこんできたのでしょうが、それを「数式の解かれ」としたところが独創的でいいです。もし「魔法の解かれ」とか「呪文の解かれ」とかであったなら陳腐すぎる句になってしまうところです。私も取りました。作者は南悠一さん。

無得点の<福田パン〜>は意味不明かつ素材盛り過ぎ、<十日ほど〜>はヒメボタルの説明で終わってしまっています(※ 福田パンはさまざまな具をはさんだ盛岡市発祥のコッペパンとのことだそうですが、衆知の品名とはいえず、読者には読み解くのが難しいです)。<風そよと〜>はまずヤマツツジの花は緋色ではないよね(すくなくとも一般的には)という入口のところで跳ねられてしまうでしょう。

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今回は諸事情でスタートが30分くらい遅れたので、ちょっと駆け足気味です。では其の二です。

6 夕ぐれはおよそそれから夏の闇
0 青田澄み早苗饗の朝心騒ぎ
2 月並みな風も吹くのさ昼の月
0 暗闇の静寂に浮かぶ白牡丹
1 葦原中国含水率拾割とはなりにける
1 水紋は雨の足跡夏燕
1 砂に落つハマナスの花の香りかな
5 はつものの豆ごはん炊きまみむめも
0 緋(あか)鈍く此ぞ冷たるを檸檬とす

最高点は最初の句で6点入りました。<夕ぐれはおよそそれから夏の闇>ですが、夏至前後は日がなかなか暮れず、たとえば夕食をとったあとでもまだ空がほの明るいといった今頃の夕暮れ時の雰囲気がよく出ています。「およそそれから」とちょっとぼかした表現も効いていると思います。私も点を入れました。作者は南悠一さん。

次点5点句は<はつものの豆ごはん炊きまみむめも>ですが、一読して坪内捻典の<三月の甘納豆のうふふふふ>を想起しました。かなり有名な句なので、挙句は「類似句」とされがちで、だいぶ損してしまいます。しかし中と下は韻をふんでおり、擬音ではなく五十音のま行列ですから、実際には異なる面も多いのですが、それでも「同じような句」という印象をくつがえすのは難しいでしょうね。私も取ったのですが、もっと練ったほうがいいかと思います。作者は大場昭子さん。

2点句はひとつ<月並みな風も吹くのさ昼の月>ですが、「昼の月」であっても「夕月」「宵月」などと同じく秋の季語ではないでしょうかね。当句会では「おおむね当期の季語を入れる」というルールを付しているので、それから逸脱しています。それから昼間の月はやはり夜の月にくらべれば程度の差はあれどちょっと異様な感じはするので、それで「月並みな」と言われると、とても川柳的になってしまいます。けっして川柳をけなしているわけではありませんが。作者は今井富世さん。

1点句が3句ですが、はじめの<葦原中国含水率拾割とはなりにける>は、問題句でしょう。まずもって葦原中国の読みがわかりません。句会の清記ではルビを付けていますが、それなしには無理。「あしはらのなかつくに」と読み、日本の古名のひとつです。それに対して含水率は言うまでもなく現代語なのですが、それでいてまた十割ではなくわざわざ拾割としたあたりも曲者です。私の句なのですが、昔も今も(葦原中国が日本国になっても)、拾が十になっても、かわることなく季節はめぐり梅雨となって国中がたっぷりの雨に降り込められてしまう……。といったあたりのことを詠みたかったのですが、分かりにくいですね。それに明確な季語はやはりありません。

次の1点句<水紋は雨の足跡夏燕>は、ぱっと見て誰の句かだいたい想像がついてしまいます。あべ小萩さん。俳人協会とその系列の結社に属し、9年だったか作句をされているとか。さすがというか、やはりというか五七五+季語という定型にぴったりはまっています。が、新しいという感じは残念ながらぜんぜんしませんね。それがわるいわけではないですけどね。

最後の1点句<砂に落つハマナスの花の香りかな>は、ハマナスは灌木とはいえ高さ1〜1.5mくらいはあります。バラ科で香りの高い花とはいえそれが地面にまで届くというのは少し無理があるかと思ってしまうと、句意が不明になります。しかし作者の相蘇清太郎さんによると、花は一日花なので、砂上に散ったたくさんの花びらのようすを詠んだとのこと。あ、そうすると開花している花のことではなく落花なんですね。落花の芳香が砂に染み込むというのはとてもおもしろい視点なので、それを、もっと活かせればと思います。

無得点句の<青田澄み〜>は早苗饗(さなぶり)の説明だけで終わってしまった句。<暗闇の〜>は闇+静寂+白(はく)牡丹で三題話的な予定調和。<緋鈍く〜>は肺結核で死んだ梶井基次郎のことのようですが、このままではまず読者には伝わりません。

 

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